まい。さうだ。黙つてゐよう。黙つてゐる間に癒つて了《しま》へば又厭な薬を飲まなくても済む。かうして早く帰れば腹の痛み位ゐ直ぐ癒るに定まつてゐる。戸外《そと》で底冷えのする夕方まで遊んでゐるのが、いつも病気の原因になるのだ。……」
 こんな考へを永い間胸の中で上下し乍《なが》ら来る間《うち》に、いつの間にか家の前まで来てゐた。ふと気がついて顔を上げると、反対の方向から恰度《ちやうど》父が帰つて来て、門を這入《はい》る所であつた。父は振り返つて其小さい次男の白いどこか打沈《うちしづ》んだ顔色と、其何かを軽く恐れてゐる二つの眼を見た。息子も亦、広い薄あばたのある、男親の暖かさと教育家の厳かさが、妙な混合をなしてゐる父の顔をぢつと見て立つた。二人の間には漠然とした愛と、漠然とした怖れが静かに横はつてゐるのだと、息子には感ぜられた。
「辰夫、おまへお腹《なか》が痛くはないかい。」
 と父は私に訊いた。私は呆然たる驚きの中に再び父の顔を見た。そして其慈愛を抑へた眼の中に、何かしら不思議な能力のあるのを見てとつたやうな気がした。何かの童話の主人公のやうに、父は私の秘《ひ》しに秘してゐる事も瞬く間に見
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