た。行手には大きな寺の屋根が見えた。そしてそこからは噪音《さうおん》の中《うち》に、寂びを含んだ鐘の音が静かに流れて来た。私は口の中で「ぢやらんぽうん」と真似をして見た。併し実際はさう鳴つてはゐなかつた。
 葬列がすつかり寺庭《じてい》に着くと、式《かた》の如く読経《どきやう》があつた。そして私は母と一緒に焼香した。それから長い長い悼詞《たうじ》が幾人もの人によつて読まれた。それらの多くには大概同じ事が書いてあつて、読む人々の態度が少しづゝ異つてゐるだけであつた。そしてどの人もどの人も「嗚呼哀しいかな」と感情をこめて折り返し折り返し読んだ。
 悼詞半ばにして私はふいに小用が足したくなつた。そして、こんな場合にこんな状態になる自分を自ら叱らうとした。けれども此の生理的の力に小さい少年の努力がどうして打克《うちか》てよう。悼詞ももう耳へは入らなかつた。私は危ふく父の葬式に出てゐる事も忘れて了ひそうになつた。それでたうとうそつと逃げ出してどこかへして来ようと決心した。
 その時やうやくある一人の人が読み終つた。私はそれを潮《しほ》に何気なく後ろへ退き、皆の注視圏外へ出ると一散に寺の境の木立を
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