目がけて走つた。そこにも誰かゞ見てゐるとは思つたが、思ひ切つて用を足した。
 蘇つたやうな思ひで元の所へ戻りかけ乍ら、自分は初めて寺庭全体を見渡した。そこには黒い黙つてゐる人の群がしんとして重なつてゐた。何となく無言の悲哀が人と人との間にあつた。私はしばらく指を唇にあてゝ、此黙つてゐ乍ら力み出す黒い団《かたま》りに見入つた。何だが涙がそうつと込み上げて来た。
 その時一人の黒い洋服を着た人が私の肩を叩いた。其人は私がふり向く間もなく私の手を、しつかり握つて幾度か打振り打振りかう云つた。
「お父さんのやうにえらくなるんですよ。お父さんのやうに偉くなるんですよ。」
 私はぢつと其人の顔を見てやつた。眼の中《うち》には明るい涙が浮んでゐた。それで私の方でも手をしつかり握り返して点頭《うなづ》いた。
 傾きかゝつた夕日の黄ばんだ光りを浴びて、私とその見知らぬ人とは手を握り合つたまゝ、暫らく黙つてゐた。
 私は此時のかうした感激の下に永久に生きられゝばよかつたと思ふ。



底本:「ふるさと文学館 第二四巻 【長野】」ぎょうせい
   1993(平成5)10月15日初版発行
初出:「新思潮」
 
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