ぬ事を云つて私をなだめた。併し続いてくる嗚咽はどうしても止まらなかつた。そして終ひには吾からその嗚咽を助長させ、吾れと吾が嗚咽に酔はうとすらした。
 その時書斎の方では急を聞いた人々が集まつて来た。そして父を母の膝から下ろして普通に臥させた。急いで駆けて来た父の碁友達の旧藩士の初老が、入つてくるといきなり父の肌をひろげて左腹部を見た。そこには割合に浅いが二寸ほどの切傷が血を含んで開いて居た。その人は泣かん許りの悦びの声でそれを指し乍ら叫んだ。
「さすがは武士の出だ。ちやんと作法を心得てる!」
 父は申訳ほど左腹部に刀を立て、そしてその返す刀を咽喉《のど》にあてゝ突つぷし、頸動脈を見事に断ち切つて了つたのであつた。人々は今その申訳ほどのものに嘆賞の声をあげてゐる。母すら涙の中に雄々しい思ひを凝めて幾度か初老の言葉にうなづいた。併し私にはどうしてそれが偉いのか解らなかつた。がえらいのには違ひないのだと自らを信じさせた。
 その夜の宿直の先生も来た。この人は母や私の前へ手をついて涙を流して詫びた。学校の小使は玄関で膝をついて了つて、「申訳がございません。申訳ございません。」と云つて、顔をあげ
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