い心が思つた。母は血に塗《まみ》れた父の上半身を自分の膝の上に抱いて、その上に蔽ひ被ぶさるやうに身を曲げ、顔を寄せて父の顔を見入つてゐた。私も近よつて父の顔を見た。併し昨夜見たと同じい広い蒼い顔には、昨日の平静以外に、何かを誰人《たれびと》かに訴へてゐるあるものが明かに現はれてゐた。それは恰もかう云つてゐる。
「俺のせゐぢやない。俺のせゐぢやない!」
 私は顧みて周囲を見た。母の膝下《しつか》には所々光るやうな感じのする黒い血が、畳半畳ほど澱んで流れてゐた。そして其血の縁の処に、季節には珍らしい一匹の蠅が、まざ/\と血を嘗めてゐた。(私は、今でもなぜこんな場合にこんな物が目に止まつたかを不審でゐる。)
 私は父を見、又母を見た。そして泣けるなら泣き度《た》いと思つた。が眼には涙が干乾《ひか》らびてゐた。私はぢつとしてゐられなくなつた。何かしなくちやならないが何もできなかつた。それで無意識に立上つて次の間へ行かうとした。私の足が閾《しきゐ》を跨ぐとやつと今まで呆唖《ぼか》されてゐた意識が戻つて来て、初めて普通の悲しさがこみ上げて来た。それで大声を出して泣き喚いた。叔母がついて来て何か解ら
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