の音が洩れた。それで姉はすつかり安堵して、軽い咳を二つ程し乍ら床に就いた。
それから二三分すると姉は低い呻き声を聞いた。そしておやと思ふ間もなく突如として異様な獣のやうな叫び声が起つた。はつと思つた姉はふら/\と立上つて、間《あひ》の襖をあけて見ると、そこには黒紋附を著た父がうつ伏せに身をもがいて、今|迸《ほとばし》つたばかりの血が首の処から斜めに一直線に三尺ほど走つてゐた。
それで姉は語をなさない叫び声を挙げて、一瞬間呆然と立すくんだ。
此二つの声を聞いて母が真先きに駆けつけた。――
その時私は遠く戸外《そと》に出て遊んでゐた。家の下女が松平神社の前で私を見つける迄には、少しく時間が経つた。下女は、
「坊ちやん[#「坊ちやん」は底本では「坊ちゃん」]、大変です。」と云つて固く私の手を掴んだ。私はそれだけを云つた下女の顔に、異常なものゝあるのを読んだ。そして其異常の何であるかはすぐ解つた。二人はまつしぐらに家に急いだ。
家へ着いて、書斎に入つて第一に私の眼を打つたものは、何よりも母の姿であつた。私はそれを見てぴつたりと足をとめて了つた。
「母は全身で泣いてゐる!」
とさう幼
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