無邪気を装ひ得るといふ大なる自信の下に、襖の引手をするりと引いた。
 八畳の書斎の中央に、一|閑《かん》張《ば》りの机を前にして父は端然と坐つてゐた。そして其眼はぢつと前方遠くを見凝《みつ》めてゐた。机の上には一冊の和本と、綴ぢた稿本《かうほん》とが載せてあつた。私はすぐに父が詩を作つてゐるのだなと思つた。そして父の姿に予期してゐた動揺の少しも現はれてゐないのに落胆をさへ感じた。父の体全体には平静があるのみであつた。併し其永遠を見凝めてゐる眼の中に、永遠に訴へてゐる懊悩のあるのを、どうして此の少年が見出し得よう。私は今朝の父と、今の父とに明かな変化を認めて了つた。けれども其変化が一つは動一つは静であるだけで、等しく同じ襖悩の表現であるのを知らなかつたのである。
「お父さん、どうして御飯をたべないの。」
 私は咄嗟の間にさう聞いた。父は静かに顔を私に向けた。広い白い薄あばたのある顔がしばらくぢつと私の方に疑ひ深く向けられてゐた。
「食ひたくなつたら食ひにゆく。」父は云つた。そして叱るよりは、願ふやうな軟かさを含して、「辰夫。おまへも此処へ入つて来ちやいけないぞ。」と云つた。
 私はその平
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