の眼の中に疼《うづ》いてゐる不安をお互ひに見たくなかつたのである。
 たうとう堪《こ》らへ切れなくなつた母は、母らしい智慧で父の様子を知る一策を案じ出した。母は私を隅の方に呼んで此方策を授けた。それは私が厳重に禁《と》められてゐる囲みを破つて、無邪気に書斎に侵入して、父の動静を見て来ると云ふのである。
「お前ならね。お父さんだつてきつと怒りはしないよ。いゝから知らない振りをして入つて行つて御覧。」
 と母は云つた。母に取つての父は、子にとつての父よりも或場合遥かに怖ろしいものであつた。私はかう云ふ母の眼の中にある弱きものゝ哀願をぼんやり心に沁みて聞いてゐた。そして私の心は先づ此の母に対して大任を果しうる嬉しさと、無邪気の仮面の下に隠れて行動する快感とに閃めいた。それで妙な雄々しさを感じ乍らその云ひ附けに従ふ事になつた。
 私は書斎の襖の前に立つて、暫らく躊躇した。自分の今行はうとする謀計《ぼうけい》に対する罪悪の意識が、ちらと頭に浮んだのである。併しそれはすぐ消えた。それより大きな感情上の勇気と好奇心とがそれを圧倒したのである。私は鳥渡《ちよつと》身じまひを直して、それから自分が飽く迄
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