を教へられた。
 息を潜めたやうな不安が家中に漲つた。誰も彼も爪尖《つまさき》で歩くやうな思ひで座敷を出入した。すべての緊迫した注意が書斎に向けられた。家中はしんとしてゐた。そして書斎から起る音は紙一枚剥くる音でも異常な響を齎《もた》らした。只時々、此の白らみ渡つた静寂に僅かな動揺を与へるものは、寝てゐる姉の空虚な咳であつた。
 お昼になると母が襖の前で、(中に入ることを禁じられてゐるので)
「お昼ですが、御飯を召上つてはいかゞです。」と父に呼びかけた。襖を隔てた書斎の中では、何か紙をぴり/\と裂く音がした。そして其次の瞬間には父の錆びた重みのある声が響いた。
「俺はまだ食べたくない。あとにする。」
 母は其声の中に明かに何物かに対する腹立たしさと、何物かに対する信念を読んだ。しかも其声が何となく焦《い》ら立《だ》つて老人のそれに彷彿してゐるのを悲しく感じた。
 母は黙つて襖の前で首を垂れた。
 父は三時になつても四時になつても出て来なかつた。そして書斎ではことりと云ふ音もさせなかつた。夕飯になつても出て来る様子がなかつた。家中の人は眼を見合はすのさへ憚《はゞか》るやうになつた。お互ひ
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