見えた。兄は此弟とは異つた遊び場所の異つた遊び友達から、遊び疲れて帰つたのである。二人は不思議に一緒には遊ばなかつた。たまに一緒に遊んでも、弟の前で兄の権威を他人に示すのに急で、弟にはわざと辛らく当つた。そして其癖家にゐる時はひどくやさしかつた。
「どうだい辰夫。痛いのかい。」と兄は兄らしい同情を少年らしい瞳に輝かせ乍ら顔を寄せた。「お母さんはおまへ一人でいゝ思ひをした罰だと云つてるよ。」
「まだ少し痛いやうな気がするの。」自分はわざと心細げに云つた。さう云つた方が兄の同情に酬いる道であらうと思つたのである。「それよりかお父さんの方はどうしてゐるの。」自分はさつきの漠然たる恐怖と不安を遠い過去のやうに思ひ出し乍ら聞いた。
「うむ。お父さんはもう二度雪隠に行つたらすつかり癒つて了つたと云つてるよ。」
「ぢやもう起きてるの。」
「いや、まだ寝てゐるよ、寝て御本を読んでゐる。」
 自分はすべてが過ぎ、すべてが平静に帰したと思つた。それで安心して、心にもない姉の事を聞いた。
「では姉さんは。」
「姉さんかい。姉さんは相変らず静かに寝てゐるよ。お前が鰻[#「鰻」は底本では「饅」]に当つたと云つたら、姉さんは私も中毒《あた》つてもいゝから食べて見たいつて云つたさうだよ。」
 私の思ひはもう父を離れて寂しい静かな姉に移つて行つた。姉の死も遠くはない。姉は長野の高等女学校へ行つてゐたが、肺を悪くして帰つて来て、今自分の寝てゐる室から二間を隔てた、父の書斎の次の間に、静かに白く横はつてゐるのである。併し、その静かな死の予想は、此の小さい心に何の不安も残さなかつた。死は、やはり不意に来て、不意に奪ひ去る処に恐怖がある。私ははつきり白い姉の死顔を見たやうな気がした。併しそこには何ら私を脅かすものがなかつた。
「兄さん、姉さん処へ行つておやりよ。僕はもういゝんだから。」
 兄は其|下《しも》ぶくれの顔に、何の感情をも浮べる事なく室《へや》を出て行つた。後には只穏かな、紫つぽい暗が残つた。
「もう大丈夫だ。」
 と私は独語した。そして何となく熱と痛みの去つた後に来る恍惚状態の中に、眼を閉ぢた。その世界にはもう不安も恐怖もなかつた。やがては深い眠りが襲うて来た。……

     三

 夜中頃、その眠りから私はけたゝましい警鐘によつて起された。戸外《そと》には夜の風が出てゐた。絶えず連続した鐘
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