きるなら一緒に生かして下さい。いやお父さんは死んでも私は生かして下さい。さうぢやない。私は死んでもお父さんを生かして下さい。……
 かう祈り続けてゐる中《うち》に、私は何だか言葉の理路を失つて了ひ、幾度か文句を間違へたり、転倒したりして、はつと中止した。そして其次の瞬間には自分の祈りの間違つた[#「間違つた」は底本では「間違った」]処を神様が聞き入れて、父ばかりが死んで自分が生残るか、自分だけが死んで父が生き伸びはしないかと思ひ到つた。もし父ばかり死んだら自分はどうなるだらう。あの広い薄あばたのある顔、沈んだ厳かな顔色、時とするとひどく柔和な姿にかへる眼。それらが今自分の周囲から急に消えたらどうなるだらう。自分は毎朝玄関へ出て「行つていらつしやい。」を云ふ必要がなくなる。お昼には紫の風呂敷に包んだ弁当を学校へ届けに行く必要もなくなる。そして小姓町《こしやうまち》の懸山《かけやま》さんまで碁のお使ひにゆく必要もなくなる。そして、……そして、……そして。それから先はわからない。私は自分の推理がそんなつまらない事にしか及ばぬのを腹立たしく思つた。そんな事の外に、父が死んだらきつと何か悲しい大きなものがあるに違ひない。それが何だろう。自分が校長の子でなくなつて乞食になるのだらうか。そんなことではない。何か漠然とした悲愴な未知の世界があるのだ。……
 私は寝床の上でぢつと目を開いて考へた。併しいくら考へてもそれが解らなかつた。自分の死に対する恐怖はいつの間にか去つてゐた。併しその漠然たる不安が小さな胸を押しつけた。
「いや併し父は死にはしない。そして自分も死にはしないのだ。」
 暗い所にゐる者もいつの間にかゐなくなつてゐた。そして一条の黄色い線がすーつと其跡に走つてゐた。傾きかけた日が、雨戸の立て隙を通して、斜に光りを射込んだのである。
 此少年は今度は其日の線を見凝《みつ》め乍ら、先から先へ連なる不安と、其不安の究極《いやはて》にある暗く輝かしいものを、涙を溜めて思ひ続けた。
 いつの間にかうと/\して来た。小さい精神の疲れが恍《くわう》とした数分時の微睡《びすゐ》に自分を誘ひ入れた。そこへ、
「家中病人だらけだ!」
 と云ひ乍ら兄が入つて来た。
 目をあけて見るともう巨人も一条の線も壁にはなかつた。只粉つぽい薄暗が一体に室中《へやぢう》を罩《こ》めて、兄の顔が白くぼんやり
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