精一杯の政策が潜んでゐるのを気附きもしなかつたのである。
「辰夫と俺とは昨夕《ゆうべ》の篠原の鰻に中毒《あた》つたらしい。薬を飲まして寝かしてやれ。俺も寝る。」と父が答へた。
「まあ、鰻に中毒《あた》つたのですつて、あなたが独りでなんぞおいでなさる罰ですよ。辰夫。もうおまへもお父さんと二人きりで行くのはおよしよ。」
かう暖かい叱責を父子《おやこ》に加へ乍ら、母は私を連れて行つて奥の間に寝かした。太陽がまだ明るく障子をかすめてゐた。戸外《そと》には明るくて騒がしい晩《おそ》い午後が在《あ》つた。それは子供の嬉戯《きぎ》に耽る最も深い時間であつた。
私は座敷の中に一人残された。私は幾度か寝床に埋めた首をもたげて、戸外に照つてゐる日を思ひ、それと暗く陰つた座敷の奥とを見比べた。母が雨戸を二三枚引いたので、そこには昼乍らうすら寒い幽暗《いうあん》があつた。暗い襖、煤《すゝ》びた柱、黝《くす》んだ壁、それらの境界もはつきりしない処に、何だかぼんやりした大きな者が、眼を瞑つて待つてゐる。……
私はふと此儘死ぬのではないかと思つた。向うの書斎に寝てゐる父と一緒に、この明るい世界から永久に離れて、その脂色《やにいろ》の人の居る所へ、何かに導かれて行つて了ふのでは無いかと思つた。さう思ふと、暗い所にゐる眼を瞑つた人が益々自分の方へのしかゝつて来るやうに思はれた。私は思ひ切つて眼を見張つて、その暗がりをぢつと見て遣つた。初めはそこに在つた者は黒い所に薄白く見えたやうな気がした。がよく見ると黒い所に猶黒く影を作つてゐるやうにも思はれた。そして了ひには何《ど》つちだか解らなくなつた。併《しか》し何かゞ居るのだと幼い心が感じた。さうだ。何かゞ息を潜めて、すべての暗い所に俺を見張つてゐるのだ。俺の隙、俺の死を!
其時ふと細かい戦慄が足の方から込み上げて来た。
「お父さんと一緒なら怖くはない。」
さう思ひ乍ら私は健気《けなげ》にも、それを理智で抑へようとかゝつた。併《しか》し乍ら其次に起つた小さな推理は、父は大人だから此儘死なないかも知れぬと云ふ事で私を脅した。そして自分一人が取残される。さうすると其先はどうなるであらう。私は祖母なぞのよく云ふ神に祈ると云ふのはかう云ふ時なのだと思つた。そして寝床の中に身を正して、一生懸命に祈つた。どうぞ神様、死ぬならお父さんと一緒に死なして下さい。生
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