まい。さうだ。黙つてゐよう。黙つてゐる間に癒つて了《しま》へば又厭な薬を飲まなくても済む。かうして早く帰れば腹の痛み位ゐ直ぐ癒るに定まつてゐる。戸外《そと》で底冷えのする夕方まで遊んでゐるのが、いつも病気の原因になるのだ。……」
こんな考へを永い間胸の中で上下し乍《なが》ら来る間《うち》に、いつの間にか家の前まで来てゐた。ふと気がついて顔を上げると、反対の方向から恰度《ちやうど》父が帰つて来て、門を這入《はい》る所であつた。父は振り返つて其小さい次男の白いどこか打沈《うちしづ》んだ顔色と、其何かを軽く恐れてゐる二つの眼を見た。息子も亦、広い薄あばたのある、男親の暖かさと教育家の厳かさが、妙な混合をなしてゐる父の顔をぢつと見て立つた。二人の間には漠然とした愛と、漠然とした怖れが静かに横はつてゐるのだと、息子には感ぜられた。
「辰夫、おまへお腹《なか》が痛くはないかい。」
と父は私に訊いた。私は呆然たる驚きの中に再び父の顔を見た。そして其慈愛を抑へた眼の中に、何かしら不思議な能力のあるのを見てとつたやうな気がした。何かの童話の主人公のやうに、父は私の秘《ひ》しに秘してゐる事も瞬く間に見抜いて了ふのだ。それでこれは匿《かく》しても迚《とて》も駄目だと咄嗟の間に思ひ決めて、そつと答へた。
「えゝ少し……。」
「さうか。おまへも矢張り痛むかい。実は俺も痛いのだよ。それで帰つて来たのだ。」と父は云つた。
「昨日おまへと篠原《しのはら》へ行つたらう。あの鰻がきつといけなかつたのだ。」
かう云ひ乍ら父は、叱責を予期してゐた私の手を引いて家の中へは入つて行つた。私は腹痛の原因に就いては何も考へてゐなかつた。考へてゐるにしても飽く迄自分一人の責任として思ひ悩んでゐたのみである。併《しか》し今はそれが父の言葉ですつかり解つた。そしてそれが単に自分一人の問題ぢやなくて、すべての自分の信頼の的である父が、同じ悩みを頒《わか》つてゐるのだと思ふと、急に安心したやうな横着な気が萌《きざ》して来た。それで出来るだけ自分の腹痛を誇張するのが今の場合一番得策なのだと、小さい心の中《うち》で一生懸命に思ひついた。そして出て来た母を見ると一種の努力をして、急にその手に縋《すが》りつき、泣き声で腹痛を訴へ始めた。
「まあ此子はどうしたと云ふのだえ。」と母は云つた。母はこの無邪気の涙の陰に、幼ない乍らも
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