穏な叱責を聞くと、もう二の句を次ぐ勇気はなく、逃げるやうにして室《へや》を出た。そして母には見えただけの平静を告げた。母はさすがに此息子の力説する程父の平静には安心しないで、却つて幾度か首を傾げた。
六
その明くる日父は突然自殺して了つた。
こんな事も危惧されてゐたのだが、まさかと打消してゐた事が事実となつて家人の目前に現はれて了つた。家人は様子が変だと云ふので、出来るだけの注意もし、家の中の刀剣なぞは知らないやうに片づけて置いた。併し父が詩書類を積み重ねた書架の奥に吉光《よしみつ》の短刀を秘して置いたのを誰一人知る者がなかつたのである。
初めて父の自殺を見出したのは次の間に寝てゐた姉であつた。姉は或意味で父の動静を看視する役目を持つて、絶えず書斎の物音に注意してゐた。恰度その時は小用《こよう》を足したくなつたので部屋を立つた。ところがふと廁の中で急な胸騒ぎに襲はれた。今自分がかうしてゐる間に父の書斎で何事かゞ起る。……といふぼんやりした考へがひよいと心に浮んで渦を巻いた。それで急いで帰つてみると、襖を隔てた書斎はいつもの通りの静けさを含蔵して、やがて軽い父の衣ずれの音が洩れた。それで姉はすつかり安堵して、軽い咳を二つ程し乍ら床に就いた。
それから二三分すると姉は低い呻き声を聞いた。そしておやと思ふ間もなく突如として異様な獣のやうな叫び声が起つた。はつと思つた姉はふら/\と立上つて、間《あひ》の襖をあけて見ると、そこには黒紋附を著た父がうつ伏せに身をもがいて、今|迸《ほとばし》つたばかりの血が首の処から斜めに一直線に三尺ほど走つてゐた。
それで姉は語をなさない叫び声を挙げて、一瞬間呆然と立すくんだ。
此二つの声を聞いて母が真先きに駆けつけた。――
その時私は遠く戸外《そと》に出て遊んでゐた。家の下女が松平神社の前で私を見つける迄には、少しく時間が経つた。下女は、
「坊ちやん[#「坊ちやん」は底本では「坊ちゃん」]、大変です。」と云つて固く私の手を掴んだ。私はそれだけを云つた下女の顔に、異常なものゝあるのを読んだ。そして其異常の何であるかはすぐ解つた。二人はまつしぐらに家に急いだ。
家へ着いて、書斎に入つて第一に私の眼を打つたものは、何よりも母の姿であつた。私はそれを見てぴつたりと足をとめて了つた。
「母は全身で泣いてゐる!」
とさう幼
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