の眼の中に疼《うづ》いてゐる不安をお互ひに見たくなかつたのである。
たうとう堪《こ》らへ切れなくなつた母は、母らしい智慧で父の様子を知る一策を案じ出した。母は私を隅の方に呼んで此方策を授けた。それは私が厳重に禁《と》められてゐる囲みを破つて、無邪気に書斎に侵入して、父の動静を見て来ると云ふのである。
「お前ならね。お父さんだつてきつと怒りはしないよ。いゝから知らない振りをして入つて行つて御覧。」
と母は云つた。母に取つての父は、子にとつての父よりも或場合遥かに怖ろしいものであつた。私はかう云ふ母の眼の中にある弱きものゝ哀願をぼんやり心に沁みて聞いてゐた。そして私の心は先づ此の母に対して大任を果しうる嬉しさと、無邪気の仮面の下に隠れて行動する快感とに閃めいた。それで妙な雄々しさを感じ乍らその云ひ附けに従ふ事になつた。
私は書斎の襖の前に立つて、暫らく躊躇した。自分の今行はうとする謀計《ぼうけい》に対する罪悪の意識が、ちらと頭に浮んだのである。併しそれはすぐ消えた。それより大きな感情上の勇気と好奇心とがそれを圧倒したのである。私は鳥渡《ちよつと》身じまひを直して、それから自分が飽く迄無邪気を装ひ得るといふ大なる自信の下に、襖の引手をするりと引いた。
八畳の書斎の中央に、一|閑《かん》張《ば》りの机を前にして父は端然と坐つてゐた。そして其眼はぢつと前方遠くを見凝《みつ》めてゐた。机の上には一冊の和本と、綴ぢた稿本《かうほん》とが載せてあつた。私はすぐに父が詩を作つてゐるのだなと思つた。そして父の姿に予期してゐた動揺の少しも現はれてゐないのに落胆をさへ感じた。父の体全体には平静があるのみであつた。併し其永遠を見凝めてゐる眼の中に、永遠に訴へてゐる懊悩のあるのを、どうして此の少年が見出し得よう。私は今朝の父と、今の父とに明かな変化を認めて了つた。けれども其変化が一つは動一つは静であるだけで、等しく同じ襖悩の表現であるのを知らなかつたのである。
「お父さん、どうして御飯をたべないの。」
私は咄嗟の間にさう聞いた。父は静かに顔を私に向けた。広い白い薄あばたのある顔がしばらくぢつと私の方に疑ひ深く向けられてゐた。
「食ひたくなつたら食ひにゆく。」父は云つた。そして叱るよりは、願ふやうな軟かさを含して、「辰夫。おまへも此処へ入つて来ちやいけないぞ。」と云つた。
私はその平
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング