い心が思つた。母は血に塗《まみ》れた父の上半身を自分の膝の上に抱いて、その上に蔽ひ被ぶさるやうに身を曲げ、顔を寄せて父の顔を見入つてゐた。私も近よつて父の顔を見た。併し昨夜見たと同じい広い蒼い顔には、昨日の平静以外に、何かを誰人《たれびと》かに訴へてゐるあるものが明かに現はれてゐた。それは恰もかう云つてゐる。
「俺のせゐぢやない。俺のせゐぢやない!」
 私は顧みて周囲を見た。母の膝下《しつか》には所々光るやうな感じのする黒い血が、畳半畳ほど澱んで流れてゐた。そして其血の縁の処に、季節には珍らしい一匹の蠅が、まざ/\と血を嘗めてゐた。(私は、今でもなぜこんな場合にこんな物が目に止まつたかを不審でゐる。)
 私は父を見、又母を見た。そして泣けるなら泣き度《た》いと思つた。が眼には涙が干乾《ひか》らびてゐた。私はぢつとしてゐられなくなつた。何かしなくちやならないが何もできなかつた。それで無意識に立上つて次の間へ行かうとした。私の足が閾《しきゐ》を跨ぐとやつと今まで呆唖《ぼか》されてゐた意識が戻つて来て、初めて普通の悲しさがこみ上げて来た。それで大声を出して泣き喚いた。叔母がついて来て何か解らぬ事を云つて私をなだめた。併し続いてくる嗚咽はどうしても止まらなかつた。そして終ひには吾からその嗚咽を助長させ、吾れと吾が嗚咽に酔はうとすらした。
 その時書斎の方では急を聞いた人々が集まつて来た。そして父を母の膝から下ろして普通に臥させた。急いで駆けて来た父の碁友達の旧藩士の初老が、入つてくるといきなり父の肌をひろげて左腹部を見た。そこには割合に浅いが二寸ほどの切傷が血を含んで開いて居た。その人は泣かん許りの悦びの声でそれを指し乍ら叫んだ。
「さすがは武士の出だ。ちやんと作法を心得てる!」
 父は申訳ほど左腹部に刀を立て、そしてその返す刀を咽喉《のど》にあてゝ突つぷし、頸動脈を見事に断ち切つて了つたのであつた。人々は今その申訳ほどのものに嘆賞の声をあげてゐる。母すら涙の中に雄々しい思ひを凝めて幾度か初老の言葉にうなづいた。併し私にはどうしてそれが偉いのか解らなかつた。がえらいのには違ひないのだと自らを信じさせた。
 その夜の宿直の先生も来た。この人は母や私の前へ手をついて涙を流して詫びた。学校の小使は玄関で膝をついて了つて、「申訳がございません。申訳ございません。」と云つて、顔をあげ
前へ 次へ
全14ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング