が父の所有物であるやうに確信してゐた。そして今其所有物である校舎、殊にその六角塔が焼け失せるとはどうして思ひ得よう。自分は父を思つた。そして父がまだ腹痛に悩んでゐてこの光景をすら見《み》ずにゐるのではないかと思つた。
「お父さんはどうしたの。」私はきいた。
「お父さんはさつき急いでお出掛けなすつたよ。」と今度は傍にゐた叔母が何の雑作もなく答へた。
自分は黙つて再び火に見入つた。そこには何物か崩れて再び火光に凄惨を増した。「よく燃える!」とどこか近処の屋根でいふ声が聞えた。「ほんとによく燃える!」
いつの間にか母が上つて来て、私の小さい肩に手を置いた。さうして強ひて沈《お》ち着けた声音《こわね》で、
「さあ、風邪を引くからもうお寝。」と云つた。
私は黙つて母の顔を見た。焔に薄紅く照らし出された其顔には、有り有りと抑へ切れぬ動揺が映つてゐた。母も、子と同じく、この時暗を衝いて心痛と危惧とに駆られ乍ら、火団《くわだん》を目がけて走つてゆく父の姿を思ひ浮べてゐるのであつた。
四
その明くる朝、私が起きた時父はまだ帰つてゐなかつた。私は心痛で蒼ざめてゐる母の顔を眺めて、無言の中にすべてを読んだ。そして台所で手水《てうづ》を使つてゐる中に、そこにゐた人々の話から、火事の原因が小使の過失らしい噂と、六角塔が瞬く間に焼け落ちて、階上に収めた御真影と大切な書類がすつかり焼けて了つた事を知つた。自分には最初その御真影と云ふ言葉が解らなかつた。それで再び其男の説明によつて解つたけれども、依然として其焼失がそれ程重大なものであるとは考へもつかなかつたのである。(幼なき無智よ!)
朝飯を済ますと、(下痢はしてゐたが、いつの間にか腹痛は止んでゐた)私はひそかに家を出て火事場を見に行つた。幼ない心で念じて行つたに係はらず、街角を曲つて行手を見ると、そこにはいつも日を受けて輝いてゐる六角塔が無かつた。そしていつも其風景の補ひをする街樹《がいじゆ》がひどく寂しい梢で空を画《くぎ》つてゐた。
火事場に近づくと妙な匂ひが先づ鼻を搏つた。そしてそれと覚しいほとりには、白い処々黄まだらな煙りが濛々と騰《あが》つた、その煙りの中を黒い人影が隠見してゐた。
私は立並んでゐる幾人かの人に交つて、焼け残つた校門の傍に立つた。裾から立昇る煙りの上には、落ち残つた黒い壁と柱の数本が浅ましく立
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