へて学校にゐる時分から既に職業といふ問題を考へなくちやならない境遇にあつた。食つてゆくためには仕方がない。彼はあらゆる芸術上の操守を棄てて「作者道」に入つた。
 勿論《もちろん》作者と云ふ商売は面白くないものではなかつた。自分の書いたものが、白いシーツに写つたり、脚光に照らし出されたりして、観客の感情をいろ/\と唆《そゝ》り立てる事は、ひそかにそれを見てゐる彼にとつても尠《すく》なからず愉快であつた。一日《ついたち》と十五日には職工の休み日なので毎《いつ》も満員であつたがその三階まで充満した見物の喝采《かつさい》が、背景の後ろにゐる彼の耳まで達する時、彼は思はず微笑《ほゝゑ》んで四囲《あたり》を見廻すのが常であつた。或《ある》時は特等席に来てゐる美しい芸者が忍び音に彼の悲劇に泣いてゐるのも見た。或時は豪放らしい学生が思はず彼の活劇に興奮してゐるのも見た。
 初め入つた頃彼は一日も早く此んな厭《いや》な商売をよして了《しま》ひたいと思はぬ日はなかつた。座長からは妙な註文が出る。大道具がごてる。撮影技師からは場面の除去を申し込まれる。事務からは不平が起る。彼はほと/\困惑した。そして一日も
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