の艇をなおも見ながら考えた。
 その間に応援船が四方から漕ぎ寄せた。選手はやっと蘇《よみがえ》ったように勝利を感じ出した。
 勝利というものの齎《もた》らす感情は、真にすべてのそれの中で、最も妙な複雑なものである。――と久野は思った。夕日が今戦いのあった水路を掠めていた。久野は再びそれとそれから岸にいる観衆近くに漕ぎ寄せた応援の人々の単一な顔を珍らしげに見廻した。

     五

 その夜いつもの慣例に従って常盤華壇《ときわかだん》で祝勝会があった。競漕からもう数時間を経ていた。それで各選手はおのおの過去の緊張の瞬間を思い出しては、理路を立ててそれを語るだけの余裕を持っていた。酒が廻り出すと今まで、勝利の因を他に嫁していた人々も、おのおのの功績を語るに急になった。そしておのおのの戦跡を誇張して語るのが、なお勝利の念を深めかつ悦《よろこ》ぶのに必要であるかのように思われ出した。それでおのおのは自分の誇張をも是認してもらうために、他の誇張をも承認した。そして会の終るころにはもう立派な戦史が出来上ってしまった。すべての偶然が必然性を帯びて来る。それからすべての事件が吉兆として思い出されて来
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