科の艇を見た。それは今岸に着けられたところであった。そして野次が艇内から敗れた選手を扶《たす》け起して岸へ上らせていた。三番の大きな男が二人の野次の肩に凭りかかって、涙をかくしながら運び去られた。彼らはわざとしているのか真に動き得なかったのか、とにかく一人では立てぬまでに疲れ果てていた。
たった半艇身の差が何という感情の異り目を造ったことであろう。時間にすれば二分の一秒を出ない間である。空間にすれば二間と出ないところである。そして全体の水路から見て真に何百分の一に足らぬ間である。この少しばかりの、しかも効果の恐ろしく大きな差は、そもどこから出たのであろう。主将の窪田は全く一本の櫂ごとにちょっとずつの差が出るという予定があったであろうか。毎日の練習の何分間かの優越がこの差を伴ったと久野自身も信ずることができるであろうか。もしこっちの選手の誰れかが一本櫂を流したらどうだろう。たちまち勝敗の数は転倒するかも知れない。久野がちょっと舵を入れ損《そこ》なったらどうだろう。たちまち艇は追い抜かれたかも知れない。真に危うい勝敗であった。「それはともかく勝ったには違いないんだ」と久野は置き去られた敵
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