では随分長く感じられた。久野はひょっとしてもうウインニングへ入っても審判の号砲が発火しないのじゃないかと思った。その瞬間に号砲は響いた。皆は漕ぎやめて艇内にどっと身を伏せた。
 そして久野は初めてこの時|嵐《あらし》のような喝采《かっさい》が水上に鳴り響いているのを聴《き》いた。それは決勝点に近づくとから鳴り止《や》まなかったのであるが、彼の耳には入らなかったのである。
「どっちが勝ったんだ」と二番の早川が苦るしい息の中から、情けない声を出した。
「安心し給え。僕らだ」と久野は答えた。しかし久野自身も勝利を確信しているのではなかった。そして審判所に掲げられた樺色の旗を見るまでは安心がならなかった。
 喝采はまだ続いていた。今までに類のないほどの接戦であったのが敵味方のいずれにも属してない観衆まで熱狂せしめたのである。
「窪田君、艇を岸につけようか」久野は言った。
「待ち給え。もっとゆっくりでいいよ。こんなことは滅多にないんだから、ゆっくり勝利の心持を味わおうじゃないか」
 窪田は答えた。そして艇はなおも続いた喝采の渦巻《うずまき》の中で静かに水面に漂わされていた。
 その時久野はふと農
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