ではなかったが」と思った。しばらくするとまた文科の艇がじりじり抜き出した。久野は「この調子で」と叫んだ。農科の艇では沈黙していた。そしてもう渡し場での力漕十本はもうこっちに対して効力がなかった。窪田は半眼でその力漕を見やりながら、やっと安心してピッチを上げ出した。
 洗い場では半艇身以上先んじていた。しかしここでの半艇身ばかりの差では敵のラスト・ヘビーが効《き》けば何の役にも立たない。久野は「あと一分だ。もう死んでもいいぞ」などと激励した。この「あと一分」と言う練習中に用い馴れた言葉が何よりも選手を元気づけた。一分間ならいくらへたば[#「へたば」に傍点]っても漕げるはずなのである。
 皆は疲れて来た。すると不思議に艇がよく出だした。文科の艇は疲れて来ると各個人、癖がとれて、全体としての調子が揃《そろ》うのである。協力がこの時初めて平均した。そして窪田の櫂につれて、おのおのは器械的に身体を前後に動かした。
 農科のラストも実によく出た。しかしそれを見て久野が気遣《きづか》っている間に文科の方のヘビーも非常によく効いた。多年の老練で窪田のピッチがぐんぐん上った。「もう十本!」決勝点に入るま
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