ちに農科の三番が一つ大きなスプラッシュをした。水煙が鮮かにぱっと上った。久野は機を得たと言わぬばかりに、「やったぞ。あんな大きなスプラッシュを」と叫んだ。それを見た者も、見ぬものも皆この言に元気づいた。敵の艇はかえって久野に野次られて沈黙してしまった。やっと二つの艇は並んだ。そして水門前で文科は約半艇身先んじていた。農科の舵手はそれでも「向うはもうへたばったぞ!」なぞと言った。久野も「なあにこっちが出ているぞ!」と応酬したりした。しかし心持にはちっともそんな言葉戦いをしそうな余裕がなかった。
 水門まで来かかると久野は「さあ水門だ」と敵に先んじて叫んだ。いかなる舵手でも言うに定まっている場所の指示を、敵艇の機先を制して言うのも、一つの戦術であった。早く言った方が晩《おそ》く言った艇より先にその場所へ届いたわけだからである。遅れ馳《ば》せに農科は水門で特別な力漕を十本した。それでまた艇は並んでしまった。後から追いつかれると何だかずっと追いぬかれたような気がするものである。久野の艇は何だかいつもより船脚が遅《おそ》いようであった。窪田は敵の艇を見やってそのピッチを比較しながら、「こんなはず
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