漕いだ日には船脚の止まるのは明らかである。岸の審判所ではそのたびに文科の艇が出たので「櫂を入れるな」と叫ぶ、久野は気が気でなかった。そのうちに「用意」の令が下った。艇首はまた一瞬間の強風に曲げられた。「ええままよ、もうなるようになれ」と久野は眼を瞑《つぶ》った。号砲が鳴り渡った。久野は用意と号砲との間がほんの一瞬時であったのに、ひどく永いように思った。二つの艇の櫂は同時に水に入った。
久野の眼には敵の艇と自分の艇の前方に白く光っている水路のほか何もなかった。
久野の艇はどうも滑り出しがよくなかった。「こいつはいけない。皆慌てたな」と窪田と久野は同時に思った。敵艇を見ると確かに一二シートはこっちより出ているらしい。「ゆっくり!」と窪田が叫んだ。久野はさらに大きな声でも一度その言葉を全艇に伝えた。皆の調子がやっと合い出した。この時競漕中敵の艇を野次るので有名であった農科の舵手が、「敵艇を抜くこと約半艇身!」と叫んだ。久野はたちまちその後を受けて「嘘《うそ》だぞ」と怒鳴った。今まで黙っていた久野は一度その言葉を言ってしまうと急に口の緊りが解けたような気がして、恐ろしく雄弁になった。そのう
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