。二人は「久野、しっかりやれ」と言って帽子を振った。久野は笑いながら樺色の帽子を脱いだ。「赤! 青!」と言うような一般的な応援の中で、自分一個にだけ向けられたこの言葉が久野にちょっとの間妙な、物慕わしい、感傷的な気持を起こさせた。その時の久野の官能は恐ろしくはっきり両岸の人の顔や声が一々見別け聞き別けられるように思われた。そして浅黒い松田の丸顔と、蒼白い成沢の細面とをごみごみした黒い観衆の中からはっきり区別し得た。渡し場から下流には要処要処に農科の応援船が一二艘ずついた。文科の選手らはその敵方の船から起る声援を寂しい心持で聞いた。一体に応援の騒ぎの中には寂びしい空虚があった。自分たちの心の緊張がそう思わせたのかも知れない。――と久野は思った。
 艇は発足点の赤い浮標《ブイ》に着いた。水路《コース》を見渡すと風は全く凪いでいるのではなかった。それは絶えず北東から吹いて来て艇首を左へ曲げた。久野はそれを直おすために、幾度も二番に軽るく櫂《オール》を入れさせなければならなかった。艇首を曲げたまま出発しては、たださえ浅草岸へ向きたがる艇の癖を、一層激しくするようなものである。水路を外れて浅瀬を
前へ 次へ
全36ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング