ちょっと舵を曳《ひ》いてもらいたいんだが、出てくれないかい。ほんとに困ったんだ」
 久野は用事の意外なのに少し驚いたらしかったが、日焼けのした窪田の顔をそっと微笑《ほほえ》みながら見上げて言った。
「出し抜けに妙なことを持ち込んだものだね。しかし僕を引っ張り出さなくたって、ほかにまだあるだろう。僕なんぞ駄目《だめ》だよ」
「ところがほかにないから君んところへ来たんだ。今もこの津島君のところへ行ったら、論文と結婚で忙しくていけないと言うんだ。それで二人で君しかないと決議して、わざわざ勧誘に来たんだ。どうか頼むから出てくれ給《たま》え」
「僕だって脚本を書いてるんで忙しいんだ。帝文の川田敏郎に今月は是非出すって約束してしまったんだからね」
「なあに、君のは一生の大事と言うほどのことではあるまいじゃないか」
「ところが今の僕にとっちゃ少くとも妻君を貰《もら》うより大問題だからね」と久野は黙って笑っている津島の方へ顔を向けた。ちょっと面を赤めた津島はこの時初めて口を切った。
「そんなことを言わないで、どうか出て下さい。窪田君もこの通り困り抜いてるんですから。メンバアが揃わなくちゃ他の人も練習に
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