った。
 午《ひる》ごろになると先生や応援の人たちがちらほらやって来た。選手は昼寝をするはずであったが、それらの人々を対手《あいて》に快活に話を続けた。しかし競漕のことについてはみずからを誇りはしなかった。「今年の選手は不思議に自分で勝つ勝つと言わないね。いつかの選手はもう大丈夫だなんて言っておいて敗けたっけが、今年のような選手がかえって勝つもんだ」なぞと応援に来た先生が賞めたつもりで言ったりした。
 しかし選手の心持には今となっては実際勝敗なぞは念頭になかった。それよりも強い要求がおのおのの心にあった。それは一時も早くどちらにか定《き》まってしまう時が来て、堪えがたい緊張感から逃《のが》れたいという望みであった。真に勝負なぞはどうでもいい、ただ感情の弛緩《ちかん》、これが各人の切に欲するところであった。

 午後になると晴れたままに風が吹いて来て応援船の旗をはたはたと鳴らした。コースにはかなり荒い波が立った。
 しかしいよいよ文農の競漕が初まろうというころになったら、珍らしい夕凪《ゆうなぎ》が来た。
 選手は皆、長命寺の中の桜餅屋の座敷で、樺色のユニフォームを着た。それが久野には何だ
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