は「土左衛門だ。土左衛門だ」と叫んでいるのであった。皆はこの時只黒い棒杭《ぼうぐい》のような浮游物《ふゆうぶつ》を瞥見《べっけん》した。やがてこんな時に迷信を持ちたがる久野が「今日は勝った」と言い出したが、それが何だか妙な不安を与えたことも争われなかった。
 そこで彼らは白鬚橋《しらひげばし》下から三分の力漕をして大連湾まで行った。いつの間にかそこらの陸にはほんとの春が来ていた。傍の工場主の邸《やしき》らしい庭内では椿《つばき》の花がぱっと咲いていた。もう水神のあたりに桜は乱れていた。誰れかが「もうここも見納めだぞ」と言った。何でもない言葉だが皆はその時の感動を笑いに紛らした。そしておのおの油のような川の面や、青み渡った向う岸の蘆や、霞《かす》んだ千住の瓦斯槽《ガスタンク》なぞを見やった。
「どうだ皆体の工合は。昨夜よく寝たか」と窪田が皆に訊ねた。そして彼自身も「俺《おれ》はほんとによく寝たぞ」と言った。後に聞いたところによると彼はその夜再発しかかった中耳炎に悩まされて、ろくろく眠れなかったそうである。けれども士気の沮喪《そそう》を慮《おもんぱか》って彼はあらぬ嘘《うそ》を言ったのであ
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