かかったと言うのである。そして皆が大声をあげてなお詳しく語り続けようとした時、急に選手の一人が誰れか艇庫の戸口に立聞きしている人を見出して小声で注意した。咄嗟《とっさ》の謀計で久野はわざと大声に「なあに心配することはないよ。向うが五秒早くたってこっちの条件《コンディション》が悪るかったせいだよ」と言ってやった。艇庫の戸口の暗いところに立っていたのは農科の舵手の高崎らしかった。
 こんなことがあるうちにも競漕はますます近づいて来つつあった。

     四

 競漕の日は来た。空は朝から美しく晴れ上った。学校の事務室から小使が早くやって来て、合宿の前へ樺色《かばいろ》の大きな旗を立てた。それがひどく晴れがましく見えた。
 選手らは朝八時ごろに一度手馴らしに艇を出して、一と漕ぎして来るはずであった。皆はいつもと違った心持で艇に乗った。しかし艇はいつもの通り緩《ゆる》やかに滑り出す。そして窪田の命令で珍しく小松宮別邸の下で小休みをした。その時傍を過ぎた伝馬《てんま》の船頭が急に何か見つけて騒ぎ出した。何だろうと思って見ると艇とその船の間五間ばかり先きを一つの黒いものが浮いて流れて行く。船頭ら
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