のほか何も見なかった。一分、二分、三分……。やがて彼らは漕ぎ止めた。久野は敵のスタートとストップの位置をもう一応確かめて、漕いだ本数及び時間を頭脳の中にしっかり記憶した。そしてほっと息を吐《つ》いて妙な快感を感じながら立ち上った。
久野が満足して渡しを渡って向うの汽船発着場へ行くとそこに法科の先輩が立っていた。そして「やあ今日はスパイかい。今ここから三分力漕した農科を見たかい」と聞いた。久野は笑ってうなずいた。
翌《あ》くる日の夕方、文科の短艇《ボート》はわざわざ漕ぎ帰る時間を早めて、昨日の農科と同じ時刻に同じコースを三分間力漕して見た。そして敵の艇が思ったよりよく出るのを知った。久野は何だか自分の艇も誰れかに偵察《ていさつ》されてるような気がして、仔細《しさい》に両岸を望遠鏡で調べた。しかしそれらしいものは誰れもいなかった。昨日久野が潜んでいたあたりは、今日は夕方から曇ったのでただ茫《ぼう》と黄色い蘆が見えるだけであった。
いよいよ季節に入ったので高商、明治という工合に次ぎ次ぎ競漕会が行われた。そうなって来ると勝敗が他人事ではなく思われて来る。大学の各科でももうレースコースを
前へ
次へ
全36ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング