いだ。何だか珍らしいものを見るような気持でしばらくは我を忘れていたが、ふと自分の任務を思い返して上流の方をすかして見た。するといつの間に来たものか鐘ヶ淵の汽船発着所の上手《かみて》に農科の艇らしいのが休んでいる。急いで望遠鏡を取り出して眺《なが》めると、舵手の着ている目印の黒マントルがはっきり鏡底に映じた。彼ははっと思って蘆の間に身を潜め、四辺《あたり》を見巡して微笑《ほほえ》んだ。ここに敵の一人が見ているとも知らず、そのうち彼らは動き出した。整調の櫂《オール》につれて六本の黄色い櫂がさっと開いて水に入った。久野は片手にストップ・ウォッチを持ち、片手に望遠鏡を押えて息を殺した。彼らは手馴《てな》らしに数本を漕いだ後、今や力漕に入ろうとしている。「さ行こう!」と言う舵手の声がはっきり久野の耳に入った。彼は急いでストップ・ウォッチの釦《ボタン》を押した。針はこちこち秒数を刻み初めた。一本、二本、三本……。敵の艇は水を切って彼の眼前一町ほどのところを鮮《あざや》かに漕いでゆく。三番がスプラッシュをして櫂で水を跳《は》ね上げるのまではっきり見える。彼は夕日の掠《かす》めた川面を一直線に走る敵艇
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