堅がどれだけ漕力があるか試《ため》そうと思って、ラストで思いきり急にピッチを上げて見た。そして敵手のなかなか侮れないのを知った。
その時の競漕では久野や窪田のいる文科勢の五人の艇の方が勝った。久野は初めて競漕行路《レースコース》の舵《かじ》を曳《ひ》いて見るの機会を得た。
その日のころから練習はいよいよ激しくなって行った。先輩がしげしげ来て選手を励ましたり、みずから間諜《スパイ》となって敵の選手の漕力を測ったりした。ある日久野は舵を水原という先輩に頼んで、自身でスパイに出たことがあった。彼は綾瀬口の渡しを越えて向う河岸の枯蘆《かれあし》の間に身を潜めながら、農科の艇の漕ぎ下るのを待っていた。妙な緊張した不安に襲われながら、彼は少し湿々《じめじめ》した土地に腰を下ろして夕日の中に蹲《うずく》まった。目の前は千住の方から来た隅田の水が一うねり曲って流れ下る鐘ヶ淵の広い川幅である。幾つかの帆や船が眼の前を静かに滑べって行く。向う岸には紡績の赤い壁がぱっと日を受けて燃えている。彼はそれを越えて遠く春には珍らしい晴れ渡った東方の空と、そしてさらに頭上高くの白黄色を帯びた無限の天空をずっと仰
前へ
次へ
全36ページ中21ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久米 正雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング