時、法科の二番を漕いでいる小野がこっちを向いて言った。
「どうだ。こんなもんだぞ」窪田が威張って見せた。
「おめえたちの艇は水雷艇だな。ひょろひょろしてるくせに速い」と法科の艇舳《トップ》を漕いでいる、何でも瑣末《さまつ》なことを心得ているので巡査と渾名《あだな》のある茨木《いばらき》が言った。
 皆はかなり好い気持であった。そしていつもよりは活気づいて艇庫に船を蔵《おさ》めた。夕飯には褒賞《ほうしょう》の意味で窪田が特別に一人約二合ほどの酒を許した。合宿で公然と酒を飲ませるのは真に異例であった。今まで選手の誰れ彼れことに二番の早川などが秘密に酒を飲んで来たことはある。別にそれを窪田は面責はしなかった。しかしその翌日の練習にはきっと六七分の続漕《ネギ》を課した。すると飲まない人は平気だが酒を飲んだ男は大抵参ってしまう。そして初めて練習中に酒を飲むことの害を自分で覚《さと》ってしまうのである。しかしこの日は少量であるが皆が心|措《お》きなく飲んだ。そして少し酔い気味で皆は、「是非勝つ。これだけ全力を注げば敗けるはずはない」などと盛んに自信の念を燃やし初めた。窪田は皆が勢いづいて来るのを黙
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