一生懸命漕いだ勢いで泥《どろ》に深く喰《く》い込んだ艇はちっとも後退《あとすざ》りをしない。口惜《くや》しいがあまり慌てているのは醜態であるというので仕方なしに休めということになった。その間に農科の艇はこっちの右側を三艇身ばかりのところを「あと三十本、そら!」とか何とか懸《か》け声までして颯々《さっさつ》と行き過ぎてしまった。皆は歯噛《はが》みをなしてそれを見送った。「癪《しゃく》だなあ! 畜生」と誰れかが怒鳴った。久野は皆の前で、「済まない、済まない」と陳謝した。しかし皆の心の中では誰れもこれを「敗ける前兆じゃあるまいか」と考えて黙り込んでしまった。
その午後親しい同志の法科の艇から競漕を申し込まれた時、皆が一種の奮励の気味で応戦し、三分間の力漕をして、半艇身ほど法科を抜いたという快い事実がなかったら、この午前中の坐礁事件は永久に厭《いや》な記憶となって、競漕の時まで留まったかも知れない。しかしこの例年勝負にならないほど力量がある法科と、たとえ一時の練習にもせよ勝ったということは、選手を初めて勝利の確信にまで導いた。
「口惜しい奴らだなあ」と競漕の練習が済んで二つの艇を並べて休んだ
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