た。しかし農科と同じ二部系統に属する工科とは口もきかなかった。
 三月の半ば過ぎであるが、水上はまだ水煙が罩《こ》めてうすら寒かった。北が晴れると風が吹いて川面に波を立てた。だんだん陽春の近づくにつれて隅田を下る船の数が増して行く。そしてこのごろではそれを縫って走る各学校の短艇もめっきりおびただしくなった。
 一と力漕終って、水神の傍の大連湾に碇泊《ていはく》していた吾々《われわれ》の艇内では、衣物《きもの》を被《かぶ》って休んでいた窪田が傍を力漕して通る学習院の艇尾につけた赤い旗をみやりながら、「全く季節が来たな」と久野に話しかけた。久野は舵のところから「うん」と曖昧《あいまい》な返辞をしながら、鐘《かね》ヶ|淵《ふち》から綾瀬《あやせ》川口一帯の広い川幅を恍惚《こうこつ》と見守っていた。いろいろな船が眼前を横ぎる。白い短艇が向うを滑《すべ》る。ふと千住の方への曲り口に眼をやると、遠く一艘《いっそう》の学校の短艇らしいのが水煙を立てて漕ぎ下って来る。「おい窪田君。あれあ農科の艇じゃないかい」と久野は呼びかけた。
 窪田はむくっ[#「むくっ」に傍点]と起き上った。そして望遠鏡を久野の手
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