にしてしまった。十二時過ぎたので彼も床に入った。先刻までかなり騒がしかった四隣《あたり》の絃歌《げんか》も絶えて、どこか近く隅田川辺の工場の笛らしいのが響いて来る。思いなしか耳を澄ますと川面を渡る夜の帆船の音が聞えるようである。うとうとしている間に二三軒横の言問団子の製餅場で明日の餅《もち》を搗《つ》き初める。しかしそれを気にして床上に輾転《てんてん》しているのは久野だけである。彼は他の人たちの健やかな眠りと健やかな活力を羨《うらや》ましく思った。しかし明日から、彼らと同じく病的な蒼白《あおじろ》い投影のない生活をすることができるのである、それが愉快な予想となって彼の心にあらわれ初めた。
「やっぱりこんな生活に入って見るのもよかった」彼はこうつぶやきながらも一度|強《し》いて枕《まくら》を頭につけた。……
練習は朝の十時ごろから初まった。ゆっくり寝て、ゆっくり朝飯を済まして艇のつないである台船のところへゆく。敵手の農科はもう出てしまっている。もう千住くらいまで溯《さかのぼ》って練習しているのであろう、工科の艇も繋《つな》いでない。法科も漕ぎ出してしまった。医科と文科の艇だけがいつも
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