pリでは一対一三七である5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。クロオメによれば、パリやロウマのような結婚の少い[#「結婚の少い」に傍点]都市では、この比率はわずかに一対六〇(訳註)に過ぎない。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. sect. lvi. p. 125.
2)[#「2)」は縦中横] Id. sect. lxxv. p. 147.
3)[#「3)」は縦中横] Id. sect. lx. p. 129.
4)[#「4)」は縦中横] Ibid.
5)[#「5)」は縦中横] Id. sect. lxix. p. 137.
6)[#「6)」は縦中横] 〔Crome, u:ber die Gro:sse und Bevo:lkerung der Europa:ischen Staaten, p. 89.〕
〔訳註〕『一対六〇』とあるのは第六版のみであり、他の版ではすべて『一対一六〇』とある。第六版の数字はおそらく誤植であろう。
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しかしながら、あらゆる種類の一般的比率は、すべて、極めて注意深く適用しなければならない。けだし食物と人口との増加が斉一であるということは滅多に起らぬことであり、またこの原因により、または慎慮や清潔に関する人民の習慣の変化により、一国の事情が変化しつつある時には、ある時期に真実な比率も他の時期には真実でなくなることは、明かであるからである。
これらの問題について例外を許さぬ法則を樹立するほど困難なことはない。概言すれば、それ以前に生じた大きな死亡率によるか、または耕作や取引の改善によって、生計獲得手段の獲得が便宜になれば年結婚の比率は増大する、と考えてよいかもしれない。しかしこうした結果はおそらく起らぬかもしれぬ。人民が従前非常に悲惨な生活をしており、そして死亡率の多くは、かかる状態に通常伴生する先見の欠乏から生じたものとすれば、突如たるその境遇の改善は彼らにむしろ上品な相応な誇りを与えることになる、ということも可能である。そしてその結果として、結婚数の比率は依然ほとんど同一に止まろうが、しかし彼らはいずれも前より余計の子供を育て上げることになり、そして要求されている人口の増加は、出生数の増加ではなく、死亡率の減退によって供給されることになるであろう。
同様にして、もしある国の人口が久しく停滞的であり、容易には増加を許さぬとしても、教育の改善その他の原因による人民の習慣の変化により結婚数の比率が減少するということもあり得る。しかし、貧困に伴う疾病による小児死亡は減少するであろうから、結婚数の減少は死亡率の減退によって埋め合わされ、そして出生数は減少しながら人口はその適当な水準に維持されるであろう。
従って、人民の習慣におけるかかる変化は、明かに考慮に入れなければならぬ。
この問題に関して樹立し得る最も一般的な法則は、おそらく、結婚に対するいかなる直接的[#「直接的」に傍点]奨励も死亡率の増大を伴わざるを得ない、ということであろう。結婚せんとする自然的傾向はあらゆる国において極めて大であるから、従って、いかなる奨励がなくとも、結婚に適当な余地があればそれは常に充されてしまうであろう。従ってかかる奨励は、全く無用であるか、または結婚の余地のない場合にこれを生み出すかでなければならぬ。そしてその結果は、必然的に、貧困と死亡の増大でなければならない。モンテスキウはその著『ペルシア人の手紙』Lettres persanes において、フランスの過去の戦争において、軍役召集の恐れが、多数の青年を促して、家族を扶養する適当な手段もなくして結婚せしめ、その結果は無数の小児の出生となったが、『かかる小児は今なおフランスで求められており、しかも貧困、飢餓、及び疾病はこれをほろぼした』と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Lettre cxxii.
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結婚に関する直接的奨励の必然的結果に関するかくも適切な例証を試みたのちに、彼が、その著『法の精神』の中で、ヨオロッパは今日なお人類の増殖に好都合な法律を必要とする状態にある、と書いているのは、全く驚くべきことである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Esprit des Loix, liv. xxiii. c. xxvi.
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ジュウスミルヒもこれと同一の見解を抱いている。すなわち彼は、食物がそれ以上増加し得ない時には結婚数は必然的に停止するという場合を考察し、結婚締結が、死亡により解消した結婚の数で正確に左右される若干の国々を検討していながら、しかも彼は、なお、結婚数に留意するのが政府の主要義務の一つである、と考えている。彼はアウグストスとトラヤヌスの実例を引用し、そして王公や政治家が結婚比率を一対一二〇ないし一二五から、一対八〇ないし九〇の比率にまで高め得たら、これは彼をして真に国民の父たる名に価せしめるものであろう、と考えている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし、彼自身が与えている事例から見て、久しい間かなり人口が稠密であった国においては、死亡こそが結婚に対する一切の奨励の中で最も有力なものであることが、明かにわかるのであるから、かくの如く結婚数を著しく増加する上で成功を収めた王公や政治家は、おそらく、国民の父たるよりは、その破壊者たる名にふさわしいのである。
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1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch, Go:ttliche Ordnung, vol. i. c. iv. sect. lxxviii. p. 151.
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年出生の総人口に対する比率は、明かに主として、年々結婚する人間の比率に依存しなければならず、従って大きな人口増加を許さぬ国においては、結婚と同様に、主として死亡に依存しなければならぬ。実際の人口減少が起っていない場合には、出生は常に、死亡によって作られる間隙を充たし、そしてちょうど国の資源の増加が許すだけこれを超過するであろう。ヨオロッパのほとんどあらゆる地方において、時々これを襲った大|疫病《ペスト》や伝染病や戦争の中間期中には、出生が死亡を超過している。しかし死亡率は国と環境を異にするにつれはなはだしく異っているから、出生も同様に異ることが見られるであろう。ただしたいていの国が許し得るところの、死亡以上に出ずる出生の超過の如何《いかん》によって、それが異る程度は同一でなかろうが。
死亡率が約二三分の一であるオランダの三九箇村においては、出生もまた約二三分の一である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。パリ周辺の一五箇村では、出生は総人口に対し同一の比率にあり、または死亡率がいっそう高いのでもう少し高く、出生は二二・七分の一、死亡も同一である2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。人口が増加しつつあるブランデンブルグの小都市では、死亡率は二九分の一出生は二四[#式(fig45455_01.png)入る]分の一である3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。死亡率が約三〇分の一のスウェーデンでは、出生は二八分の一である4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。死亡率が三九ないし四〇分の一のブランデンブルグの一、〇五六箇村では、出生は約三〇分の一である5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。死亡率が四八分の一のノルウェイでは、出生が三四分の一である6)[#「6)」は縦中横、行右小書き]。以上一切の事例において、各国の情態が許すところの出生超過を適当に斟酌すれば、出生は明かに死亡によって左右されているのである(訳註)。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. c. vi. s. cxvi. p. 225.
2)[#「2)」は縦中横] Ibid. and c. ii. s. xxvii. p. 93.
3)[#「3)」は縦中横] Id. c. ii. s. xxviii. p. 80, and c. vi. s. cxvi. p. 225.
4)[#「4)」は縦中横] Id. c. vi. s. cxvi. p. 225.
5)[#「5)」は縦中横] Ibid.
6)[#「6)」は縦中横] Thaarup's Statistik, vol. ii. p. 4.
〔訳註〕第二―五版ではここに直ちに続いて次の一文があったが、第六版では削除された、――
『ロシアではこの斟酌は極めて大でなければならぬが、けだし、死亡率はおそらくわずかに四八ないし五〇分の一と考えてよいのに、出生は、現在人口増加が急速であるため、二六分の一という如き高率であるからである。』
[#ここで字下げ終わり]
統計学者はこれまで、あらゆる国を一括しての死亡率の一般的尺度を得ようと努めている。しかし仮にかかる尺度を得ることが出来るとしても、私はそれがどんな有用な目的に役立ち得るのか理解することが出来ない。それはヨオロッパまたは世界の人口を確かめる上にはほとんど何の役にも立たないであろう。またそれそれを特定国や特定地に当てはめれば最大の誤謬に陥ることになるべきは、明かである。人類の死亡率が国を異にし環境を異にするに従って、二〇分の一から六〇分の一に至るほどに大きく違っている時に、都市の数や人民の習慣や環境の健康性に関する一国の諸事情に関する知識を有たずに一般的平均を特定の場合に当てはめれば、必ず誤を犯すことになるであろうし、また右の如き諸事情に関する知識が得られれば、その国に適当する特定の比率もわかることとなり、おそらく一般的比率に頼る必要はなくなることであろう。
しかしながら、諸国の死亡率に影響を及ぼす諸事情の中で、極めて一般的なものと考えることが出来、また同時に誰の眼にも全くはっきりとわかるところの、一箇の主要なる事情がある。これは、都市の数と、地方住民に対する都市住民の比率である。密集居住と坐業とが健康に及ぼす悪影響は普遍的であり、従って国の一般的死亡率は、農業に従事するものの数に比較してのかかる生活法をなすものの数に、著しく依存するであろう。この原理にもとづいて、都市人口の地方人口に対する比率が一対三であるときには死亡率は約三六分の一であるが、都市人口の村落人口に対する比率が三対五ないし三対七であるときには、この比率は三五分の一ないし三三分の一に上昇し、また右の比率が二対七ないし一対四であるときには、三六分の一以下に下降する、と計算されている。この計算にもとづいて一七五六年の表によって見ると、プロシアの死亡率は三八分の一、ポメラニアでは三七・五分の一、新辺疆伯領では三七分の一、選挙伯領では三五分の一となる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch, Go:ttliche Ordnung, vol. iii. p. 60.〕
[#ここで字下げ終わり]
都市と農村を一括してのすべての国の死亡率の最近似平均尺度は、ジュウスミルヒによれば、三六分の一である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかしクロオメは、この尺度は、ジュウスミルヒ時代にはおそらく適当であったかもしれぬが、たいていのヨオロッパ諸国において都市の数も大きさも増加している現在としては、正確でない、と考えている2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。彼は実際、この死亡率は、ジュウスミルヒの時代においてさえむしろ低きに失するのであり、今日では三〇分の一というのが平均尺度に近いことがわかる、という意見であるように思われる。ジュウスミルヒは、多くの他の統計学者と同様に、伝染病の年をその計算から除外する傾向がいささかあるから、彼れの比率が低きに失するというのはありそうなことであるが、しかしクロオメは
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