、ジュウスミルヒの提唱せる一般的尺度に対立する死亡率の一般的尺度を確立するに足る証拠を提出しているわけではない。彼は、全プロシア王国の死亡率をもって三〇分の一となすブシングを、引用している3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。しかし、この推論は三箇年間の表から得られたものであることがわかるが、これは、何らかの一般的平均を決定せんがためには短か過ぎる期間である。プロシア王国に対するこの比率は、実際、クロオメがその後で与えている観察と、全く矛盾している。一七四八年に終る五箇年間の表によれば、死亡率はわずかに三七分の一でしかない4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]。同一期間において、出生は死亡に対し一三一対一〇〇であった。シレジアでは、一七八一年ないし一七八四年の死亡率は三〇分の一であり、出生対死亡の比率は、一二八対一〇〇であった。ゲルデルランドでは、一七七六年ないし一七八一年の死亡率は二七分の一、出生率は二六分の一であった。この二州はこの王国中で死亡率が最高の州である。ある他の州ではそれは極めて低い。一七八一年ないし一七八四年には、ナフシャテル及びバレンギンの平均死亡率はわずかに四四分の一、出生率は三一分の一であった。ハルベルシュタット公国では、一七七八年ないし一七八四年に、死亡率は更に低く、わずか四五ないし四六分の一であり、出生の死亡に対する比率は一三七対一〇であった5)[#「5)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Vol. i. c. ii. s. xxxv. p. 91.
2)[#「2)」は縦中横] 〔Crome, u:ber die Gro:sse und Bevo:lkerung der Europa:ischen Staaten, p. 116.〕
3)[#「3)」は縦中横] Id. p. 118.
4)[#「4)」は縦中横] Id. p. 120.
5)[#「5)」は縦中横] Id. p. 122.
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クロオメが下している一般的結論は、次の如くである。すなわち、ヨオロッパ諸国は三階級に分類し得、その各々には異る尺度が当てはめられるべきである。都市住民の地方住民に対する比率が一対三というが如く高い、最も富裕にして最も人口稠密な国においては、死亡率は一対三〇と考え得よう。人口及び耕作に関して中位の状態にある国においては、死亡率は三二分の一と見做《みな》し得よう。そして人口稀薄な北方諸国では、ジュウスミルヒの三六分の一という比率を当てはめ得よう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 127.
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以上の比率は、伝染病の年の結果が十分計算の中に表われているとしても、なお一般死亡率を過大ならしめるように思われる。ヨオロッパのたいていの都市に近年普及してきているように思われる清潔上の習慣の改善は、おそらく、衛生の点で、都市の大いさの増大を埋め合せて余りあるであろう。
一八二五年(訳註――本章の以下の部分は第六版のみに現わる。)
現在の膨脹した形におけるプロシアの人口について一八一七年に人口調査が行われたが、それによると総人口は一〇、五三六、五七一、その中《うち》男は五、二四四、三〇八、女は五、三二〇、五三五であることがわかった(訳註)。出生は四五四、〇三一、死亡は三〇六、四八四、結婚は一一二、〇三四であった。出生の中《うち》五三、五七六、すなわち[#式(fig45455_02.png)入る]は私生児であった。男女出生比は二〇対一九であった。私生児のうち一〇人中三人が、また嫡出児は一〇人中二人が、生後第一年に死んでいる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 〔Supplement to the Encyclopae&dia Britannica, article Prussia.〕
〔訳註〕これらの数字には誤りがある。
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ここに挙げた数字によると、出生対死亡の比率は一四九対一〇〇、出生対結婚四対一、出生対総人口一対二三・二、死亡対総人口、男一対三三、女一対三六、合計一対三四・五、結婚対総人口一対九四となる。死亡以上に出ずる出生の超過が総人口に対する比率は一対六二である。これは、もし継続すれば、人口を約四三年にして倍加せしむべき超過である。しかしながら、この比率がどれだけ継続したかは述べてないから、これからは何ら正確な結論を下すことは出来ない。しかし人口の非常に急速に増加しつつあることには、ほとんど疑いはない。
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第五章 スイスにおける人口に対する妨げについて
スイスの状態は多くの点において他のヨオロッパ諸国と極めて異り、それに関して蒐集された事実の若干は極めて興味がありかつ本書の一般的原理を極めて有力に例証する傾向があるから、別個の考慮を払う価値があるように思われる。
約三五年ないし四〇年以前スイスでは、この国の人口減退に関する突如たる大警鐘が打鳴らされたように思われる。そして数年前設立されたベルン経済学会の会報は、勤労や技術や農業や工業の衰退や、人口消滅の切迫せる危機やを慨《なげ》く論文で満たされていた。これらの論者の大部分は、この国の人口減退をもって、立証の必要なきほど明瞭な事実と考えた。従って彼らは、主として救治策、なかんずく産婆の移入、育児院の設立、若い娘への婚資の分与、移民出国の防止、外人移住者の奨励等の、提唱に没頭したのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 一七六六年度の各種報告を参照。
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しかしながら、その頃、極めて価値多い材料を載せた一論文が、ヴヴェイの牧師ミウレ氏によって発表された。彼は進んで救治策を指摘する前に、まず弊害の存在を証明することが必要だと考えた。彼は各教区の創設時にまで遡ってその記録簿を極めて丹念周到に研究し、第一期は一六二〇年に終り、第二期は一六九〇年に終り、第三期は一七六〇年に終るところの、各七〇年からなる三期間中に生じた、出生数を比較してみた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この比較によって、出生数は第一期よりもむしろ第二期の方が少く、そして(第二期における若干の遺漏と第三期における若干の重複を仮定した上で)第三期における出生数もまた第二期より少いことを見出して、彼は、一五五〇年以来この国が引続き人口が減退したことに対する証拠は、議論の余地なき正しいものと考えたのである。
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1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moires, etc., par la Socie'te' Economique de Berne. Anne'e 1766, premie`re partie, p. 15 et seq. octavo. Berne.〕
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右の前提をすべて認めても、その結論はおそらく彼が想像したほど確実ではない。すなわち、彼れの報告に現われている他の事実からして、私は、スイスはこの期間には、前章で想像した場合に該当するのであり、従って慎慮や清潔等に関する人民の習慣の改善がこの国の一般的健康性を徐々として増大するに至ったのであり、また彼らをしてその子供のより[#「より」に傍点]多くを成人に達するまで養育し得せしめることにより、より[#「より」に傍点]少数の出生をもって必要な人口を供給するに至ったのである、と信ぜざるを得ないのである。云うまでもなく、年出生の総人口に対する比率は、おそい時期の方が昔よりも低かったであろう。
ミウレ氏の正確な計算から見ると、最終期中には死亡率は異常に低く、かつ嬰児期から青春期まで育つ子供の比率は異常に高かったことが、わかる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。前二期においてはこれは決して同一程度ではあり得なかったであろう。ミウレ氏自身、『この国の昔の人口減退は、往時しばしば人口を荒廃せしめた頻々たる疫病《ペスト》に帰せらるべきである』と云い、更に『かかる恐るべき災厄が頻々と起っているのになおそれが存続し得たとすれば、それは気候が良く、またこの国がその人口を即刻恢復するために供し得るある資源のあったことの、証拠である』と附言している2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。彼は当然この観察を適用すべきであるのに、これを怠り、そしてかかる即刻の人口恢復は異常の出生増加なくしては起り得ないということを忘れ、かつ、かかる破壊源泉に対して国が自己を維持することが出来るのを可能ならしめるためには、出生の総人口に対する比率が他の時代よりも大であることを要するのを、忘れているのである。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. table xiii. p. 120.
2)[#「2)」は縦中横] Id. table xiii. p. 22.
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彼はその表の一つで一三一二年以来スイスで流行した疫病《ペスト》全部の表を示しているが、それによれば、第一期の全部を通じてこの恐るべき天刑は短い間隙をおいてこの国を荒廃し、そして第二期の終末に至る二二年以内にまでその時折りの暴威を振ったのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. table iv. p. 22.
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疫病《ペスト》が頻々と流行していた間、国が特に健康的でありまた一般的死亡率が極めて低かったと想像するのは、あらゆる蓋然律に反することであろう。いまこの死亡率が、かかる災厄を免れている多くの他の国で現在見られるように、約三二分の一であり、右の最終期における如くに四五分の一ではないと仮定しよう。出生はもちろんその相対的比率を維持し、すなわち、三六分の一1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]ではなく、約二六分の一となるであろう。かくて吾々は、国の人口を出生数によって測定するに当って、時期が異るに応じて二個の極めて異る乗数をもつべきである。従って出生の絶対数は第一期の方が大であるかもしれぬが、しかもこの事実は決して人口がより[#「より」に傍点]大であることを意味しないのである。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. table i. p. 21.
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今の実例において、一七の教区の出生の合計は、第一期の七〇年間において、四九、八六〇とされているが、これは一年約七一二となる。これに二六を乗ずれば、一八、五一二という人口が得られる。最終期においては出生の合計は四三、九一〇1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]とされているが、これは一年約六二六となる。これに三六を乗ずれば、二二、五三六という人口が得られる。かくてもしこの乗数が正しければ、証明せんとした減少の代りに甚だしい増加が存在したことが、わかるであろう。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. table i. p. 16.
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私が第一期の死亡率を過大に見積らなかったのには多くの理由があるのであるが、なかんずく、ジュネエヴの隣接都市についての計算がそれであって、それによれば、一六世紀には、生命蓋然率すなわち出生者の半数が生存する年齢はわずか四・八八三で四箇年と十分の九以下であり、平均寿命は一八・五一一で約一八年半であることがわかる。十七世紀には生命蓋然率は一一・六〇七で一一年半以上、平均寿命は二三・三五八である。十八世紀には生命蓋然率は二七・一八三すなわち約二七年五分の一に増加し、また平均寿命は三二年五分の一となった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 〔S
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