Q)[#「2)」は縦中横] Id. p. 204.
 3)[#「3)」は縦中横] Id. ch. vi.
[#ここで字下げ終わり]
 もし政府が、これらの障害の除去に努め、また農業者の勤労を奨励し指導し、農業問題に関する最上の知識を普及するに努めるならば、それは、五百の育児院を設立するよりも、この国の人口を増加するに遥かに役立つことであろう。
 カンツレエルによれば、政府がこれまで人口の増加を奨励するために採った主たる方策は、診療院や産科院や育児院の設立であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。貧民を無料で治療するための診療院の設立は、多くの場合極めて便宜なことであり、またスウェーデンの特殊事情においてもおそらくそうであったであろうが、しかし同一の目的を有ったフランスの病院の実例によれば、かかる施設でもこれを普く奨励してよいかどうかには、疑問があろう。産科院はその結果はむしろ有害である。けだし一般にこれを経営する原則からすれば、それは確かに罪悪を奨励する傾向があるからである。育児院は、その表面の直接の目的を達すると否とを問わず、あらゆる点で国家にとり有害である。しかしその影響については、私はこれを他の章で詳述する機会があろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. ch. vi. p. 188.
[#ここで字下げ終わり]
 しかしながらスウェーデン政府は、もっぱらこの種の方策のみを採っていたのではない。一七七六年の法令によって、穀物の取引は、国内全部を通じて完全に自由になった。そしてその消費するところ以上を産するスカニア州については、全く無税の移出が認められた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この時に至るまで、南部諸州の農業は、輸送の困難と、いかなる価格でも外人に売ることが絶対に禁止されていたことにより、その穀物の販路がないために、妨げられていたのである。北部諸州はこの点においてはなお若干の困難を蒙っているが、もっともこれらの州は、自己の消費に足るだけのものを産しないから、この困難はそれほどには感じられない2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。しかしながら、その生産物の販路に困難が存するということほど耕作の改良に致命的な妨げはなく、この販路の困難のために農業者は豊年にはその穀物を一般平均よりもそれほど低くない価格で売ることが出来ないのである、と一般に云い得よう。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 204.
 2)[#「2)」は縦中横] Id. ibid.
[#ここで字下げ終わり]
 しかしいかなる他の原因にも増してスウェーデンの人口増加に寄与したものは、各農場に対しての人員を制限する法律が、一七四八年に撤廃されたことである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この法律の目的は、土地所有者の子供達に新しい土地の開拓や開墾を強制するにある如く思われるが、それによって全国の改良が早められると考えられたのである。しかしこれらの子供達はかかる事業に必要な十分の資金がないので、他の方法で運命を開拓せざるを得ないことは経験上明かであり、その結果として多数のものが移住したと云われている。しかしながら今では、父親は、土地財産を何人にでも思うがままに分割し得るばかりでなく、かかる分割は特に政府によって奨励されている。そしてスウェーデンの農場の面積の大きいことと、それを一家族で完全に耕作することは不可能であることを考えると、かかる分割はあらゆる点において極めて有用でなければならない。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 177.
[#ここで字下げ終わり]
 一七五一年におけるスウェーデン人口は、二、二二九、六六一であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。一七九九年には、ワルゲンティン氏の後継者ニカンデル教授から私がストックホルムで得た報告によれば、三、〇四三、七三一であった。これはこの国の永久的人口の莫大な増加であって、これに比例する土地生産物の増加に随伴したものであるが、けだし穀物輸入は以前よりも増加せず、また人民の境遇も平均的に云って悪化したと考えるべき理由はないからである。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 184.
[#ここで字下げ終わり]
 しかしながら、この増加は、週期的妨げなくしては行われなかったものであり、この妨げは、一時の間全然その増進を止めなかったとしても、常にその率を遅らせたのである。最近五十年間にかかる妨げが何囘生じたかは、資料がないから私には云えないが、しかしその二、三は云うことが出来る。本章で既に引用したワルゲンティン氏の論文によると1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、一七五七年及び一七五八年は不作で、比較的死亡が多かったように思われる。一七六八年の輸入の増加から判断するとすれば、この年もまた生産が少なかったらしい2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。ワルゲンティン氏がプライス博士に提供した追加表によれば、一七七一、一七七二、及び一七七三年はことに死亡が多かった3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。私がニカンデル教授から得た報告によれば、一七八九年の一年だけで一七九五年に終る二十年間の出生の死亡に対する平均比率が著しく変化するから、この一七八九年の死亡が非常に多かったにに違いない。すなわち右の比率は、一七八九年を入れると一〇〇対七七であるが、これを除くと一〇〇対七五である。これは二十年間の平均に対して一年の有無が作り出す差異としては非常に大きな差異である。最後に、私がスウェーデンにいた一七九九年は、極めて致命的な年であったに違いない。ノルウェイに接する諸州では、農民はこの年は未曾有の凶年であると云った。家畜は、前年の旱魃により冬期間いずれも皆極度に損害をうけ、そして収穫の約一月前の七月には、多数の人民は、樅の中味や乾《ほ》したすかんぽで作り、味や栄養をつけるために碾割《ひきわり》を少しも混じていない、パンで生活したのである。農民の蒼白い顔や憂鬱な外貌は、その食物の栄養不足を物語った。多くのものは既に死んでいたが、しかし、かかる食事による結果の全部は当時なお現われていなかった。それはおそらく後に至って何らかの伝染病の形で現われることであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moires de l'Acade'mie de Stockholm, p. 29.〕
 2)[#「2)」は縦中横] 〔Me'moires du Royaume de Sue`de, table xlii.〕
 3)[#「3)」は縦中横] Price's Observ. on Revers. Pay. vol. ii. p. 125.
[#ここで字下げ終わり]
 スウェーデンの下層社会がかかる厳しい圧伏を忍ぶ忍耐力は、全く驚くべきものであり、これは、彼らの生存が全く自力に委ねられており、そして彼らは必然の大法則に服しているのであって支配者の気迷《きまぐ》れに服しているのではないと信じているからこそ、生じ得るものである。前述の如くに、たいていの既婚労働者は僅小な土地を耕作しており、そして気候不順のために凶作となったりまたは家畜が死ぬ場合には、彼らはその窮乏の原因を理解し、これを天の配剤として耐え忍ぶのである。何人も、自然の一般的法則から生ずると自ら信ずる災厄は、適宜の忍耐をもってこれに服従するであろう。しかし政府や社会の上流階級が、虚栄や偽善が、下層階級の事柄に絶えず干渉して、下層階級の者に、彼らが享受する一切の福祉はその支配者や富める慈善家によって与えられるのだと信じさせようと努める時には、彼らが蒙る一切の災厄をもってこれと同じところに由来するものと考えるに至るのは、極めて当然であり、従ってかかる事情の下においては、忍耐はもとより期待すべくもない。もし不忍耐が行動に現われるならば、更により[#「より」に傍点]大なる災厄を防止するために、この不忍耐を力ずくで抑圧しても構わぬ場合もあろうが、不忍耐それ自身はこの場合明かに是認すべきものと思われる。従って不忍耐を明かに助勢する傾向のある行動をとった者は、その結果に対し大いに責任を負うべきである。
 スウェーデン人は、一七九九年の大凶作に異常な忍従をもって処したが、しかもその後に至り酒類の醸造を禁止する法令が出た時には、国内に非常な紛争が生じたと云われている。この方策自身は、確かに人民の福利を図ろうとするものであった。そしてこれに対する人民の態度は、自然の法則から生ずる災厄を忍ぶ場合と、政府の法令から生ずる困窮を忍ぶ場合とでは、人民の気持に相違があることを示す、興味深い証拠を与えるものである。
 スウェーデンの人口増加率を妨げた疾病流行期は、一般に、ひどい欠乏による栄養不良によって生じたものらしい。そしてこの欠乏は、一般的輸出かまたは平年に労働者に十分の食物を分配するかの形で、予備の貯えをしておくということのない国、従って凶作の起る前に人口がその生産物一杯に増加している国に、不順な季節が襲来した時に、惹き起されたものである。かかる事態は、あるスウェーデンの経済学者が主張する如くに、彼らの国が九百万ないし一千万の人口を有つべきであるとするならば1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、彼らはこれだけの人数を養うに足る食物を生産するだけでよいのだということの、明白な証拠であり、産科院や育児院の力をかりなくとも、この食物を食う口に不足しないことを、安んじて確信してよいであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Me'moires du Royaume de Sue`de, ch. vi. p. 196〕
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 一七八九年は死亡の多い年であったが、しかもニカンデル教授から私が得た報告から見ると、この国の一般的健康状態は増進したことがわかる。一七九五年に終る二十年間の平均死亡率は三七分の一であって、その前の二十年間の平均たる三五弱分の一よりよくなっている。一七九五年に終る二十年間に増加率は逓増していないのであるから、死亡率の減少は予防的妨げの作用の増大によって生じたものに違いない。同教授から得たもう一つの計算は、この推測を確証するように思われる。ジュウスミルヒが引用している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]ワルゲンティン氏の説によれば、現在夫婦五組に対し年に一人の子供が生れる割合であったが、前記の後の方の時期には、現在夫婦の年出生に対する比は、五・一対一、私生児を除けば五・三対一であった。これは後の方の時期には、結婚が早婚でなくまた多産的でなかったことの、証拠である。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Go:ttliche Ordnung, vol. i. c. vi. s. 120, p. 231.〕
[#ここで字下げ終わり]

    一八二五年(訳註――本章の以下の部分は第六版のみに現れる。)

 その後の報告から見ると、スウェーデンの健康状態は引続き増進していることがわかるが、この事実から吾々は、人民大衆の境遇は改善されつつあると推論して間違いないであろう。
 スウェーデン全部とフィンランドとで、一八〇五年に終る五年間に、各年齢の生存者平均数は、男子、一、五六四、六一一、女子、一、六八三、四五七、合計、三、二四八、〇六八であった。年平均死亡は、男子、四〇、一四七、女子、三九、二六六、すなわち年死亡率は、男子、三八・九七分の一、女子、四二・八七分の一、平均、四〇・九二分の一の割合である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] 〔Transactions of the Royal Academy of Sciences at Stockholm for the year 1809, and Supple
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