ち大きな比率のものが結婚まで生存するからといって、吾々は予防的妨げが行われていないと推論し得ないことは、明かである。
『オランダでは、記録簿から見ると、産児の半数以上が結婚まで生存することが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、わかるであろう。しかし上述した、オランダ諸村落における、年結婚の総人口に対する比率から見ると、予防的妨げが多くは作用しているはずのないことは明かである。ブランデンブルグ選挙伯領では、一六九四年ないし一七五六年に、産児の半数以上が結婚まで生存した。しかしジュウスミルヒの与えている表から見ると、この選挙伯領では、産児の半数は二二歳以下で死亡している2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。従って結婚は実際極めて早婚であったに違いない。そして、ある場所で与えられているこの選挙伯領の結婚率から見ると、それは、挙げられている国の中でオランダを除いていずれの国よりも、総人口に対する比較において大きいことがわかる3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。しかしながらなお、もし産児の半ばが二二歳以下で死亡するというのが本当ならば、半ば以上が結婚まで生存すると考えるのは、むしろ困難である。
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『1)[#「1)」は縦中横] Id. vol. i. table xvii. p. 51.
『2)[#「2)」は縦中横] Id. vol. iii. table xxii. p. 35.
『3)[#「3)」は縦中横] ジュウスミルヒの同一諸国に対する比率と計算とは、時々相互にいささか矛盾するように見える。これは、それが時期を異にして作られたためであるからである。ブランデンブルグ選挙伯領の結婚の人口に対する比率は、一七〇〇年ないし一七五五年には(vol. i. ch. iv. sec. lxxi. p. 141.)九〇分の一、また一七二二年までは八七分の一となっている。しかし一七三八年ないし一七四八年の期間を含むに過ぎぬもう一つの計算では、同選挙伯領の村落の比率は一〇九分の一、小都市のそれは九八分の一である(sec. lx. p. 129.)。
『同選挙伯領の産児の半ばが二二歳以下で死亡するという表は、増加が急速でありかつ表によれば産児の半ば以上が結婚まで生存することを示す時期から、得られたものではない。
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『この難点の解決に寄与しかつあらゆる場合において留意すべき一事情で、なお触れなかったものがある。これは再婚及び三婚の数である。ポメラニア公国においては、一七四八年ないし一七五四年の七箇年間に、結婚二三、三二四のうち、六、一七〇はその一方が結婚の経験をもつものであり、一、二一四はその双方がその経験をもつものであることが、見られた。従って結婚まで生存する産児数を知るためには、後者の総数と前者の半数とを控除しなければならない。そしてこの原因により、一切の表は、結婚まで生存する産児の比率を実際より大きく示すのである。今の場合では、おそらく、産児のたっぷり半分が未婚で死亡する。そして私は、かかる訂正は、特に、結婚率のかくも高いオランダ村落に対し行われなければならぬと信ずるが、けだし二三分の一という死亡率が産児の半分を二十歳になる前に滅ぼしてしまわないと考えることは、困難であるからである。これに加うるに、私は、オランダ村落の結婚の多くは、都市のそれと同様に、その地の出生者でないものの間に行われるものであることを、ほとんど疑わないのである。オランダのあらゆる地方へは外国人の不断の流入がある。それはドイツの墓地と呼ばれている。(訳註――この最後の部分は、第四版からは『ヨオロッパ中部における人口に対する妨げについて』と題する章の第四番目の註で別の言葉で、触れられている。)
『疫病《ペスト》流行期の不規則ではあるが週期的な囘起については、読者はジュウスミルヒの蒐集した価値多き死亡表を見られたい。これら諸表を通じて散見している普通の伝染病流行期は…………』
第二版は、この最後の部分のところから、第三版以後の諸版の最後から第二番目のパラグラフに続く。
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マグデブルグ大公国では1)[#「1)」は縦中横、行右小書き](訳註)、一七五六年に終る六四年間に、出生の死亡に対する平均比率は一二三対一〇〇であり、この期間の最初の二八年間には一四二対一〇〇、後の三四年間にはわずかに一一二対一〇〇であり、五箇年を一期とした場合、その一期間には一七〇対一〇〇というが如く高率であり、また二期間では死亡が出生を超過した。軽微な伝染病は表全体にかなり濃厚に分布している。連年三、四の伝染病が発生して人口を減少せしめた事例が二度あるが、その後には結婚と出生の増加が現われている。出生の結婚に対する比率の両極端は四二対一〇及び三二対一〇であり、六四年間の中項は三九対一〇である。この表についてジュウスミルヒは、平均死亡数は一七一五年または一七二〇年より後に三分の一の人口増加があったことを示しているが、しかも出生及び結婚は人口が停止的、否むしろ減少していることを証明するであろう、と云っている。しかしながら彼はこの結論を下すにあたり、一七五九年に終る伝染病流行の三箇年間を加算しているが、この期間には結婚も出生も共に減少したように思われるのである。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 103.
〔訳註〕これ、及び以下四つの、五パラグラフは、第三版より現われたものである。
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ハルベルシュタット王国では1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、一七五六年に終る六八年間に、出生の死亡に対する平均比率は一二四対一〇〇であったが、しかし五箇年を一期とする若干の期間では、それは一六四対一〇〇というが如き高率であり、またある期間では一一〇対一〇〇というが如き低率であった。全六八年間の増加は著しかったが、しかも一七二三年に終る五箇年間では、平均出生数は二、八一八で、一七五〇年に終る四箇年間では二、六二八であり、これから見ると人口は二七年間に著しく減少したように思われるであろう。同様な外見は、三二箇年の期間中の結婚に関しても起っている。
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1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 108.
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平均結婚数は、一七一八年に終る五箇年間には七二七で、一七五〇年に終る五箇年間には六八九であった。これら両期間中に死亡率は著しい増加を示したことであろう。伝染病は頻々と生じたように思われる。死亡が出生を超過するほどに伝染病がはげしかったときは、ほとんど常に、そのすぐ後には通常以上の比率の結婚を生じ、そして数年にして出生率の増大を惹起した。表全体における最大の結婚数は一七五一年に生じているが、これは死亡が出生の三分の一以上も超過した一七五〇年の伝染病の翌年に当り、そしてその後四、五年間は、最大の出生率を示している。出生の結婚に対する比率の両極端は、四二対一〇及び三四対一〇であり、六八年間の中項は三八対一〇である。
残余の表も同様の結果を示している。しかし以上によって、出生及び結婚、並びに死亡の、総人口に対する比率には、絶えず変動が生じていることが、十分にわかることであろう。
変動の最も少い比率は、出生と結婚との相互の間の比率であることが、観られるであろう。その明白な理由は、この比率は主として、云うまでもなく大きな変化を生じないところの結婚の出産性によって影響されるということ、これである。吾々は実際、結婚の出産性は、表における出生の結婚に対する比率の変化ほど、大きな変化があるとは、想像し得ない。またそれはかく変動する必要もないが、けだしもう一つの原因が、同じ結果を生ずるように寄与しているからである。特定の年の結婚と時を同うする出生は、主としてそれより何年か前に行われた結婚に属するものである。従って、もし四、五年間、大きな比率の結婚が行われ、その後偶然一、二年間その比率が小さくなれば、その結果として、記録簿上では、その一、二年の間、出生の結婚に対する比率は大きくなるであろう。また反対に、四、五年間は比較的に結婚が少なく、次いで、一、二年間にそれが多くなるならば、その結果として出生の結婚に対する比率は小さくなるであろう。この事実は、プロシア及びリトアニアの表にはっきりと例証されており、そしてジュウスミルヒの蒐集したすべての他の表を一見すれば、確証されることである。すなわちこれらの表を見ると、出生の結婚に対する極端な比率は、一般に、出生数よりも結婚数によって影響されるものであり、従って結婚の出産性の変動よりは、結婚に対する志向または奨励の変動から、生ずるものであることが、わかるのである(訳註)。
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〔訳註〕ここまでが、第三版よりはじめて現われたものであり、これ以下は全部第二版からのままである。
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これらの表を通じて散見している普通伝染病流行年は、云うまでもなく、結婚及び出生に対して、プロシアの表における大|疫病《ペスト》と同一の影響を及ぼしはしないであろう。しかしその流行の程度に比例して、その作用が一般に同様であることが見られるであろう。他の幾多諸国の記録簿、なかんずく都市の記録簿から見ると、疫病《ペスト》の襲来は十七世紀の終末と十八世紀の初頭に、頻々たるものがあったことがわかる。
これらの表に現われた、人口の急速な増加の時期の後に疫病《ペスト》や疾病流行季が生ずるという事実を考えてみると、住民の数が、これらの場合において、彼らの健康を保つに必要な食物と施設とを超過したのだという考えを、抱かざるを得ない。この仮定によれば、人民の大衆は、生活を低下せざるを得なくなり、そしてより[#「より」に傍点]多数のものが一つの家に群集するに至っていたのであろう。そして国は絶対的の意味では、密集し人口稠密であったわけではなくても、これらの自然的原因は明かに疾病を生ずるに与って力あったことであろう。たとえ人口稀薄な国ですら、食物が増加し住居が増加しないうちに人口増加が行われるならば、住民は余地と食物とに苦しまなければならない。もし蘇格蘭《スコットランド》のハイランド地方で、今後十年か十二年間、結婚がもっと頻繁になるかもっと多産的になり、しかも移民が行われないならば、一軒の小屋に五人ではなく七人いることにもなろう。そしてこの事実は、生活程度を低下する必要と相俟って、明かに一般民の健康に対し最も好ましからぬ影響を与えることであろう。
[#改ページ]
第十三章 以上の社会観察による一般的推論
上来述べ来った諸妨げが緩慢な人口増加の直接的原因であり、そしてこれらの妨げが主として生活資料の不足から生ずるものであることは、生活資料の何らかの急激な増大によってこれらの妨げがかなりの程度除去された時には、常に必ず比較的急速な増加が生ずることから見て、明かであろう(訳註)。
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〔訳註〕本章の次のパラグラフ以下の部分は、第一版の第六章及び第七章に該当する。ただし細かい文字上の訂正加筆が多過ぎるから、重要ならざる変更は一切指摘しないこととした。
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余地と食物の十分な健康国に樹てられた新植民地は、すべて、絶えず急速な人口増加を遂げたことは、普く認められているところである。古代ギリシアの時代から生じた植民地の多くは、一、二世紀する間に、母国に匹敵するに至り、時にはこれを凌駕することさえあった。シシリイのシラキュウスとアグリゲンツム、イタリイのタレンツムとロクリ、小アジアのエフェソスとミレトスは、あらゆる記録によれば、少くとも古代ギリシアのいずれの都市とも比肩するものであった。これらの植民地はいずれも、蒙昧野蛮な諸民族の住んでいた地方に樹てられたものであり、彼らはたやすく新来住者に屈服し、その結果新来住者は云うまでもなく豊富な沃地を獲得した。イスラエル人は、カナンの地をさまよっ
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