オ年ないし一七二一年の期間には、表でわかるように、この比率は四九対一〇であり、そして一七一九年及び一七二〇年という特別の年には、それは五〇対一〇及び五五対一〇である。
 ジュウスミルヒは、疫病《ペスト》流行後のプロシアの結婚の出産性に読者の注意を促し、その証拠として年出生五〇対年結婚一〇という比率を挙げている。一般平均から見ると、当時のプロシアの結婚は非常に多産的であったと想像すべき最も十分な理由がある。しかし確かに、この一年の比率は、否、この期間の比率でさえも、明かにこの年に行われた結婚の数がより[#「より」に傍点]少なかったために生じたもので、出生の数のより[#「より」に傍点]多かったために生じたのでないから、それに対する十分な証拠ではないのである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。疫病《ペスト》流行の直後の二年間は、死亡以上に出ずる出生の超過は極めて驚くべきものがあったが、出生の結婚に対する比率は小さかった。そして通常の計算法によれば、各結婚はわずかに二・七ないし三・六人の子供を産んだに過ぎぬということになったであろう。表の最後の期間(一七五二年ないし一七五六年)には、出生の結婚に対する比率は五対一であり、一七五六年だけでは六・一対一である。しかもこの期間には出生の死亡に対する比率はわずかに一四八対一〇〇であり、これは、もし出生の結婚に対する高い比率が、遥かに通常以上の高い出生率――より[#「より」に傍点]少い結婚数ではなく――を意味するものであったならば、実際に起り得なかったであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch, Go:ttliche Ordnung, vol. i. c. v. s. lxxxvi. p. 175.〕
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 表に含まれた六四年間の各時期における出生の死亡に対する比率の変動は、特別の注意に価するものである。もし吾々が、疫病《ペスト》流行の直後の四年間の平均をとるとすれば、出生の死亡に対する比率は二二強対一〇となり、これは、死亡率を三六分の一と仮定すれば、二十一年にして人口を倍加せしめるであろう。一七一一年ないし一七三一年の二十箇年をとるならば、出生の死亡に対する平均比率は約一七対一〇となるであろうが、これは(第十一章末[#「第十一章末」は底本では「二六三頁」]第一表によれば)、約三十五年にして人口を倍加せしめる比率である。しかしもし、二十年ではなく、六四年という全期間をとるとすれば、出生の死亡に対する平均比率は一二対一〇よりもわずか以上となるが、これは一二五年以下では人口を倍加せしめない比率である。もし吾々が余りにも短い期間の中に疫病《ペスト》の死亡率を包含させ、または一七三六年及び一七三七年の伝染病流行の死亡率さえも包含させるとすれば、死亡は出生を超過し、そして人口は減少しつつあるように見えるであろう。
 ジュウスミルヒは、疫病《ペスト》流行後のプロシアの死亡率は、三六分の一でなく三八分の一であろう、と考えている。読者の中にはおそらく、かかる出来事によって生じた食物の豊饒はこれより更に大きな差異を生じたはずである、と思うものもいるであろう。ショオト博士は特に、極めて高い死亡率の後には、一般に、異常な健康状態が現われる、と述べている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そして私は、この観察は、同年齢を相互に比較すれば正しいものであることを疑わない。しかし、最も好都合の事情の下においても、三歳以下の嬰児は他の年齢よりも死亡しやすいものであり、極めて高い死亡率の後に通常現われる異常な比率の子供は、まずこの時期の自然的健康性を相殺し、そしてこれにより一般死亡率に大きな差異が生ずるのを阻止するのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] History of Air, Seasons, etc., vol. ii. p. 344.
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 疫病《ペスト》流行後のプロシアの人口を一七一一年の死亡数で割ると、死亡率はほとんど三一分の一であり、従って、その年に莫大な数の子供が生れたために減少よりはむしろ増大したことが、わかるであろう。しかし、これらの子供がもっと丈夫な年頃になるや否や、確かにこの死亡率の増大はなくなり、そしてその時には、おそらく、ジュウスミルヒの観察は正しいということになるであろう。しかしながら一般的には、先行する高い死亡率は、死亡よりは出生に対してより[#「より」に傍点]顕著な影響を与えるものであることを、観なければならない。表を見ると、年死亡は人口の増加につれて規則正しく増加し、その間終始ほとんど同一の相対比率を保っていることが、わかるであろう。しかし年出生数は全期間を通じて――この間に人口は二倍以上に増加しているのに――大差はない。従って、出生の総人口に対する比率[#「比率」に傍点]は、最初と最後とでは、著しく変っていなければならぬ(訳註)。
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〔訳註〕第二版ではこの次に二パラグラフあったが、第三版では削除された。第二版の削除された部分は次の如くである、――
『疫病《ペスト》後の四六年を平均して、年出生の年結婚に対する比率は四三対一であり、換言すれば、本篇第四章(訳註――前章冒頭の訳註を参照)で打ち樹てた原則によると、産児四三の中《うち》、その二〇が結婚まで生存する。この期間における出生の死亡に対する平均比率は一五七対一〇〇である。しかし、四三人の子供の中からわずかに二〇が、すなわち四・三の中から二が、結婚まで生存すると仮定して、かかる増加を生み出すためには、私は、該章で述べた理由により、各結婚当りの出生は八でなければならぬと信ずる。
『クロオメは、一国の出生が四以下の場合には、人口は極めて危殆な状態にある、と云っている。そしてこの問題に関する他の著者達と同じく、彼は、各結婚当りの子供の数を、年出生の年結婚に対する比率によって、測定している。しかし私はこれに反し、これら表における年結婚が四人以上の子供を与えるときの方が、人口は危殆な状態にあるのだ、と云いたい。その場合には産児の半数以下しか結婚まで生存しないであろうが、もしそうであるならば、幾分でも大きな増加を生ずるためには、各結婚当りに異常な数の子供が生れなければならない。プロシアでは、結婚は極めて多産的であり、従って著しい子供の死亡率を見ながら、人口増加は停止しなかった。しかしこの死亡率そのものは好ましい基準とは考え得ない。そして急速な増加が進行中の他の諸国においては、年出生の年結婚に対する比率は、一般に、四対一というほどに高くなく、または普通の計算法によれば、各結婚は四人以上の子供しか産んでいない。』
 なお直前のパラグラフは、かなりの加筆を受けた後、第三版以下では前章に再現している。二四五―二四六頁参照。
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 従って(訳註)、ある国の過去の人口を測定するに当って一定の出生率を仮定することが、いかに誤謬の基となりやすいかが、わかるであろう。今の事例においては、右の仮定によれば、死亡数から見て疫病《ペスト》により三分の一を失っているにもかかわらず、人口はほとんど減少しなかったという結論に達することになろう。
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〔訳註〕これとこの次との二パラグラフは、第二版になく、第三版以下のものである。
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 これと同種の変動は、その程度こそ違え、ジュウスミルヒが蒐集した一切の表の死亡、出生、結婚の比率に現われている。そしてこれらの問題に関する論者は、わずか数年の比率から、過去及び将来の計算を余りにも行い勝ちであるから、かかる変動の実例をもう少し挙げて読者の注意を促すのが、有益であろうと思われる。
 ブランデンブルグ選挙伯領では1)[#「1)」は縦中横、行右小書き](訳註)、一七一二年で終る一五箇年間に、出生の死亡に対する比率はほとんど一七対一〇であった。一七一八年で終る六箇年間には、この比率は一三対一〇に下り、一七五二年で終る四箇年間にはわずかに一一対一〇となり、一七五六年で終る四箇年間には一二対一〇であった。一七五九年で終る三箇年間には死亡が著しく出生を超過した。出生の総人口に対する比率は与えられていないが、しかし出生の死亡に対する比率に見られるこの大きな変動が、もっぱら死亡の変動から生じたものではなかろう。出生の結婚に対する比率はかなり斉一で、両極端もわずかに三八対一〇及び三五対一〇に過ぎず、中項は約三七対一〇である。この表では、一七五七年に始まる三箇年までは大きな伝染病はなく、そしてこの表はこの期間で終っている。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch's Go:ttliche Ordnung, vol. i. tables, p. 88.〕
〔訳註〕これ、及びその次の二つの、三パラグラフは、第二版のものに対し第三版で著しく加筆訂正されたものである。
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 ポメラニア大公国では1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、六〇年間(一六九四年ないし一七五六年、その両年を含む)の出生の死亡に対する比率は一三八対一〇〇であった。しかし六箇年を一期とすればそのある期間では、それは一七七対一〇〇、及び一五五対一〇〇というが如き、高率であった。がまたある期間にはそれは一二四対一〇〇、及び一三〇対一〇〇というが如き低率であった。五年ないし六年を一期とする各期における出生の結婚に対する比率の両極端は、三六対一〇及び四三対一〇であり、六〇箇年間の中項は約三八対一〇である。伝染病流行年も時々発生したらしく、そのうち三箇年は死亡が出生を超過した。しかしこの一時的人口減少は、これに相応する出生の減少を齎らさず、しかも全表中最大の結婚率をもつ年は、一度は伝染病の翌年、もう一度は翌々年に現われている。しかしながら死亡の超過は、表の最後の年たる一七五九年に終る三箇年までは大きくはなかった。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. vol. i. tables, p. 91.
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 ブランデンブルグ新辺疆[#「辺疆」は底本では「辺彊」]伯領では1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、一六九五年ないし一七五六年――この年を含む――の六〇年間に、出生の死亡に対する平均比率は、最初の三〇年間には一四八対一〇〇、後の三〇年間には一二七対一〇〇、全六〇年間には一三六対一〇〇であった。五箇年を一期とする若干期間では、一七一及び一六七対一〇〇というが如き高率であり、またある期間では、一一八及び一二八対一〇〇というが如き低率であった。一七二六年に終る五箇年間には、年平均出生は七、〇一二で、一七四六年に終る五箇年間は六、九二七であって、これによれば、出生から判断して、人口はこの中間の二〇年間に減少したものと推論し得るかもしれぬ。しかしこの期間における出生と死亡との平均比率から見ると、その間に伝染病流行年があったにもかかわらず、人口は著しく増加したに違いないように思われる。したがって出生の総人口に対する比率は決定的な変化を遂げたに相違ないのである。同じ表の他の二〇年間にも、出生と結婚との両者に関して同様の結果が見られる。出生の結婚に対する比率の両極端は三四対一〇及び四二対一〇であり、中項は約三八対一〇である。一七五七年に始まる三箇年は、他の表におけると同様に、極めて死亡の多い年であった(訳註)。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 99.
〔訳註〕これ以下の第二版の諸パラグラフは第三版では削除され新しいものがこれに代った。削除された第二版の部分は次の如くである、――
『ロシアでは、年出生の年結婚に対する比率は、わずかに約三六対一〇に過ぎないけれども、非常に急速な増加が進行中であることは、吾々の知るところである。そして、もし吾々が、人口増加が更にいっそう急
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