れているジュネエヴでは、一七〇一年ないし一七六〇年の結婚数は二一、四九三であり、同期の出生数は四二、〇七六であった。この事実から、各一結婚は平均して二人以下の子供しか産まなかったものと、推論されている。これらの数を挙げている『英国文庫』〔Bibliothe`que Britannique〕 中の貴重な論文の筆者は1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、当然この結果にいささか驚いているが、それでもなおこれをもってジュネエヴの婦人の出産性の尺度として採用している。しかしながら、この事情は、疑いもなく、新来者の不断の流入から生ずるものであり、彼らの結婚は記録簿に現われるが出生には現われないのである。もし各個の母親から生れる子供の数を注意深くジュネエヴの死亡表において辿るならば、その結果が極めて異るべきことを、私は信じて疑わないのである。
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『1)[#「1)」は縦中横] Tom. iv. p. 38. note.
[#ここから2字下げ]
『パリでは、年出生の年結婚に対する比率は約四・二分の一対一であり1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、従って婦人は大都市としては通常以上に多産的であると考えられている。しかしこの比率からはかかる推論は正当に下し得ないのであり、この比率はおそらく、単に、市内で生れたものでないものの結婚が余り行われず、近隣の村で結婚式を挙げる習慣のあることにより、生ずるものである。パリでは総人口に比例して少数の結婚しか行われぬこと2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、及びパリ周辺の村では通常以上の結婚が行われる事実が、この仮定を確証するように思われる。
[#ここから3字下げ]
『1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch's Go:ttliche Ordnung, vol. i. c. v. s. lxxxv. p. 174.
『2)[#「2)」は縦中横] パリでは、年結婚の総人口に対する比率は、ジュウスミルヒによれば、一対一三七であり、クロオメによれば、一対一六〇である。ジュネエヴではそれは、一対六四であり、そしてこの異常な結婚率は、確かに主として、他所者の大きな流入によるものである。年出生の年結婚に対する比率が新来者または移民退去によって大きな影響を蒙る場所では、いずれにしてもそれからは正確な推論はほとんど下し得ない。それは結婚の出産性を表わしもしなければ、また結婚まで生存する産児の比率を表わしもしない。
[#ここから2字下げ]
『人口増加の速度は、各一結婚当りの産児の数と、この数のうち結婚まで生存するものの比率とに、依存する。この速度の尺度は、死亡以上に出ずる出生の超過が総人口に対して採る比率である。』
 以上が第二版の削除された部分であるが、この次のパラグラフは、第三版以後と同じく、『出生の死亡に対する』云々ではじまるものであり、訳註で特に断ってあるものの外は大体次と同じである。
[#ここで字下げ終わり]
 出生の死亡に対する比率、及びこれらの総人口に対する比率が分れば、読者が一見してこれから増加率と倍加期間を知ることが出来るように、私はユウラアの計算になる二表をジュウスミルヒから転載することとするが、この表は私は極めて正確なものと信じている。第一表は死亡率が三六分の一と仮定した場合に限るから、従ってかかる死亡率の国でなければ適用し得ない。第二表は一般的であり、もっぱら埋葬以上に出ずる出生の超過が総人口に対して採る比率を基礎とするものであるから、従って死亡率の如何《いかん》を問わず、広くあらゆる国に適用し得よう。私は今また(訳註)(一八二五年)第三表を追加することとしたが、これは我国及び他の若干諸国で十年ごとの人口実測を行う慣習があるのを考慮して便宜であろうと思ったからのことである。これはケインブリジのピイタア・ハウスのB・ブリッジ師の計算になるものであり、任意の十年間の百分率増加が得られた時に、この増加率が継続するものと仮定して、増加率すなわち倍加期間を知ることの出来るものである。
[#ここから2字下げ]
〔訳註〕『私は今また』以下は第六版のみに現わる。
[#ここで字下げ終わり]
 出生と埋葬との間の比率が与えられるならば、死亡率の大であればあるほど倍加期間の短いことが見られるであろう。けだしこの仮定によれば、出生は死亡と共に増加し、そして両者が総人口に対する比率は、死亡率がより[#「より」に傍点]小であり、年長者の数がより[#「より」に傍点]多い場合よりも、大であるからである。
 トゥック氏によれば、ロシアの死亡率は五八分の一、出生率は二六分の一である。埋葬の脱漏を斟酌して死亡率を五二分の一と仮定すれば、出生は死亡に対して二対一、出生超過の総人口に対する比率は五二分の一となる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。第二表によれば、倍加期間はこの場合約三六年であろう。しかし、出生の死亡に対する比率を、二対一としておいて、第一表の如くに死亡率を三六分の一と仮定すれば、埋葬以上に出ずる出生の超過は総人口の三六分の一となり、そして倍加期間はわずかに二五年となるであろう(訳註)。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] ここに挙げた比率は、トゥック氏の第二版の附表から採ったものとは異る。しかしここではそれは問題をより[#「より」に傍点]容易にかつより[#「より」に傍点]明瞭に例証するものと思われる。
〔訳註〕第二版ではこの次に一パラグラフあったが後版では削除された。それは次の如くである、――
『非常に健康的であり、その結果として成人の数の大である国では、出生は、総人口に対して、成人の数がこれより少い場合と同一の比例を決してとらないものである。従って死亡以上に出ずる出生の超過は、短期間には、従前の人口に等しい人口を生み出すことは出来ない。』
[#ここで字下げ終わり]
[#表(fig45455_08.png)入る]
[#表(fig45455_09.png)入る]
[#表(fig45455_10.png)入る]
[#改丁]

    第十二章 伝染病が出生、死亡、及び結婚の記録簿に及ぼす影響(訳註)

[#ここから2字下げ]
〔訳註〕本章は第二版ではヨオロッパ中部を論じた章の次の第六章となっていたが、第三版ではかなり書き改められた上でここへ移された。書き改められた場所は後半であり、前半は特別に断った個所の外はおおむね第二版のままである。
[#ここで字下げ終わり]
 ジュウスミルヒが蒐集し五〇年ないし六〇年の期間を包含する極めて貴重な死亡表から見ると、ヨオロッパのあらゆる国が、その人口増加を阻止する週期的な疾病流行季に見舞われ、また一世紀におそらく一、二囘、その住民の三分の一ないし四分の一を一掃する猛烈悪性の疫病《ペスト》に襲われずにすんだ国がほとんどないことが、はっきりとわかる。かかる死亡期がすべての出生、死亡、結婚の一般比率にいかに影響を及ぼしたかは、一六九二年ないし一七五七年のプロシア及びリトアニアの統計表に明瞭に例証されている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] 〔Sussmilch, Go:ttliche Ordnung, vol. i. table xxi. p. 83 of the tables.〕
[#ここで字下げ終わり]
[#表(fig45455_11.png)入る]
 ここに書写したものの原表は、全期間内の各年の結婚、出生、死亡を含んでいるが、これを縮小するために、私は、各年の数が特別の観察に価する場合を除いては、四、五年の短期間から得られた一般平均を掲げるに止めた。大|疫病《ペスト》直後の一七一一年は、ジュウスミルヒによっては、いずれの一般平均にも包含されていない。しかし彼はその特別の数を挙げているのであり、もしそれが正確であるならば、大死亡率が結婚数に与えた急激莫大な影響を示すものである。
 ジュウスミルヒは、人民の三分の一以上が疫病《ペスト》で死亡したと計算している。しかもこの大きな人口減少にもかかわらず、表を見ると、一七一一年の結婚数が疫病《ペスト》流行前の六年間の平均にほとんど二倍することがわかるであろう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。この結果を生ずるには、青春期にあるほとんどすべてのものが、労働の需要と豊富な働き口を見て、直ちに結婚する気になったものと、想像してよかろう。この莫大な結婚数は、おそらく、その年には、それに比例する多数の出生を伴い得なかったであろうが、けだし新婚の夫婦が同年中に一以上の出生をもたらし得るとは考えることが出来ず、残余の出生は疫病《ペスト》流行中死亡を免れた結婚から生じなければならないからである。従って吾々は、この年の出生の結婚に対する比率がわずかに二・七対一すなわち二七対一〇であるのに驚くことはない。しかし、出生の結婚に対する比率は大ではあり得なかったとはいえ、結婚数が異常に多かったのであるから、出生の絶対数は大ならざるを得ない。そして死亡数は当然に小であったであろうから、出生の死亡に対する比率は三二〇対一〇〇という莫大な数に上っている。これはおそらく、かつてアメリカで知られたものに匹敵する大きな超過である。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] 疫病《ペスト》以前の人口は、ジュウスミルヒの計算によれば(vol. i. ch. ix. sect. 173.)、五七〇、〇〇〇であったが、これから疫病の死亡数二四七、七三三を控除すると、その残り三二二、二六七は疫病後の人口となる。これを一七一一年の結婚数と出生数とで割ると、結婚は人口の約二十六分の一、出生は約十分の一となる。かかる異常な比率は、いかなる国においてもただ一年だけ起り得るものである。もしそれが継続するとすれば、それは人口を十年以内で倍加するであろう。表の中には誤りがあり、また疫病流行年の出生及び結婚が一七一一年に含まれているということは、あり得る。もっとも死亡は慎重に区別されているから、こういうことになっているのははなはだ奇妙に思われるのであるが。しかしながらそれは大して重要なことではない。その他の年が一般原理を例証するに十分である。(訳註――この註の終末の『表の中には誤りがあり』以下は、第四版より現われたものである。)
[#ここで字下げ終わり]
 翌一七一二年には、結婚数はもちろん著しく減少したに違いない。けだし青春期にあるほとんどすべてのものは前年に結婚してしまったので、この年の結婚は主として、疫病《ペスト》流行の後に青春期に達したものによって行われたからである。しかしそれでも、結婚可能なものの全部が前年に結婚したわけではおそらくないから、一七一二年の結婚数の人口に対する比率は高く、そして、前年の結婚の半数より遥かに多いというわけではないけれども、疫病《ペスト》流行前の最終期の平均数よりは大である。一七一一年における出生の結婚に対する比率は、結婚数が比較的小であるため、前年よりは大であるけれども、三・六対一すなわち三六対一〇であるから、他国に比べれば大きくはない。しかし出生の死亡に対する比率は、かくも大きな比率の人民が結婚した前年よりは小さいけれども、二二〇対一〇〇であるから、他国に比べればなお異常に大である。この出生超過は、三六分の一という死亡率に基づいて計算すると、(二六三頁の第一表によれば)二一年八分の一で一国の人口を倍加するであろう。
 この時期以後、年結婚数は減少した人口によって規制されはじめ、そして云うまでもなく疫病《ペスト》流行以前の平均結婚数以下にはなはだしく低下しはじめたが、これは主として年々結婚年齢に達するものの数が減少したからである。疫病《ペスト》流行の九年ないし十年後の一七二〇年には、偶然によるのか、または予防的妨げの作用がはじまったのによるのか、年結婚数は最少であった。そして出生の結婚に対する比率が非常に高くなったのは、この時である。一七一
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