ス表は、各五年ごとの人口増加は次の如くなろう、――
[#ここから表]
一七八〇年ないし一七八五年/二七七、〇〇〇
一七八五年同  一七九〇年/四一七、〇〇〇
一七九〇年同  一七九五年/四一六、〇〇〇
一七九五年同  一八〇〇年/四五六、〇〇〇
一八〇〇年同  一八〇五年/五五〇、〇〇〇
一八〇五年同  一八一〇年/六五一、〇〇〇
[#ここで表終わり]
 人口の増加は前表によるよりも後表による方が遥かに自然的であり蓋然的であるように思われる。
 一七八〇年ないし一七八五年の期間に、人口の増加がわずかに六三、〇〇〇であって、その次の時期には六五九、〇〇〇であるとか、または一七九五年ないし一八〇〇年の期間にそれがわずかに一一三、〇〇〇であって、その次の時期には六六〇、〇〇〇であるとかいうのは、どの点から見てもありそうなことではない。しかし蓋然性を縷説《るせつ》する必要はない。新表が正しかろうと否とを問わず旧表が誤っているに違いないことを示すために、最も明瞭な証拠を持ち出すことが出来よう。記録簿における脱漏を斟酌しなければ、一七八〇年ないし一七八五年の間の死亡以上に出ずる出生の超過は、六三、〇〇〇ではなく一九三、〇〇〇の増加を示している。また他方において、全然蓋然性を入れずに想像し得る記録簿の脱漏をいかに斟酌しても、一七八五年ないし一七九〇年における死亡以上に出ずる出生の超過が六五九、〇〇〇に等しくなることはないであろう。脱漏を斟酌しなければ、この超過はわずかに三一七、三〇六となるだけである。そしてもし吾々が、出生の脱漏は六分の一ではなく四分の一であり、死亡の記録簿に脱漏はなく、国外で死亡したものはない、と仮定しても、その超過は数千という数には遥かに達しないであろう。
 これらの期間における人口の増加を、出生の死亡に対する比率及び死亡率によって測定しても、同一の結果が生ずるであろう。最初の期間には増加は前述の増加よりも遥かに大きなものとなり、他の期間には遥かに小さなものとなるであろう。
 同様な観察は、旧表の他の期間のあるもの、なかんずく前述の一七九五年ないし一八〇〇年の期間についても、同じことが云えよう。
 他方において、もし各期間における出生の死亡に対する比率が、かなり正確に測定され、そして中位人口と比較されるならば、この基準によって決定される人口増加率は、あらゆる期間において、前記の修正を施した死亡以上に出ずる出生の超過によって決定される増加率と、ほとんど一致するであろう。そして前記の修正がある程度不正確であるとしても、――これはありそうなことだが――何らかのかかる不正確から起る誤りは、旧表の基礎となっている仮定、すなわち出生は人口に対し常に同一の比率を保つという仮定から、必然的に生じなければならぬ誤りより、遥かに小なるべき傾向があるということも、更に注意に価することである。
 もちろん私は、より[#「より」に傍点]よい資料が見つからぬ場合には、このようにして行われる人口の推算に決して反対しようというつもりはない。しかし現在の場合では、埋葬と洗礼の記録簿が一七八〇年の古きまでも毎年与えられており、そしてこれらの記録簿は、最近の人口実測という確固たる立脚点があるのであるから、一七八〇年以来の人口に対してそれ以前よりも正確な表を与え、同時に、出生のみによる推算は、なかんずく特定期間の人口増加を見るためには、不正確であることを証示する、手段を提供しているのである。大きな国の総人口を見積るに当っては、二、三十万は大したことではない。しかし五年間または十年間の増加率を見積るに当っては、この程度の誤りは全く致命的である。適宜に選んだ五箇年間の増加率について結論を作るに当っては、思うに、問題の期間の人口増加が六三、〇〇〇であるかそれとも二七七、〇〇〇であるか、一一三、〇〇〇[#「一一三、〇〇〇」は底本では「一一五、〇〇〇」]であるか、それとも四五六、〇〇〇であるか、六五九、〇〇〇であるか、それとも四一七、〇〇〇であるかは、本質的差異をなすものであることが、認められるであろう。
 この世紀の一七八〇年に先立つ期間に関しては、洗礼及び埋葬の記録簿は各年ごとに報告されていないから同一の修正を施すことは出来ない。そして記録簿が互にある隔たりをもつ別々の年についてしか与えられていない、この期間以前の出生から計算した表には、啻に五箇年を平均した出生の人口に対する比率に変化があるという事情からばかりではなく、またかく選定された箇々の年がかなり正確にかかる平均を表わさないという事情によっても、非常に大きな誤りが生じ得ることは明かである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。『人口摘要』の『緒論2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]』にある洗礼、埋葬、結婚に関する貴重な表をちょっと見ただけでも、箇々の年の出生、死亡、結婚から下された人口に関する推論が、いかにほとんど信頼すべからざるかがわかるであろう。もし例えば吾々が、一八〇〇、一八〇一両年の人口と、次の一八〇二、一八〇三両年の人口を、結婚の人口に対する比率は常に同一と仮定して、この比率から測定するとすれば、初めの二箇年の人口が九百万ならばこれに続く二箇年の人口は千二百万よりはるか以上となることとなり、かくて短期間に、三百万以上、すなわち三分の一以上増加したように見えるであろう。また一八〇〇、一八〇一両年の出生を一八〇三、一八〇四両年に比較して行われる測定の結果も、これと多くは異らないであろう。少くともかかる測定は、三年間に二百六十万の増加を示すであろう。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] 一七六〇年ないし一七七〇年に極めて急速な人口増加のあったことを意味するこの両年の表の数は、これらの原因のいずれかによって、相互に適当な比例を保っていないことを、私は疑わない。おそらく一七七〇年の数が過大に失するのであろう。
 2)[#「2)」は縦中横] P. 20.
[#ここで字下げ終わり]
 読者は出生、死亡、結婚、が総人口に対して小さな比率しかもたず、従って一時的原因から起り得るこれらの何らかの変動は、おそらく、人口総数の同様の変動を伴い得ないことを考えるならば、かかる結果を見ても少しも驚かないであろう。ただ一年間に出生が三分の一増加するということはあり得ようが、それは人口を三分の一増加せしめることはなく、おそらくわずかに十八分の一か十九分の一増加せしめるに過ぎないであろう。
 従って、前章において述べた如くに、この世紀の一七八〇年に先立つ時期の、十年おきの出生のみの報告から計算された人口の表は、より[#「より」に傍点]よい資料がないので極めて概略に行った推算であると考え得るに過ぎず、特定の時期の比較上の増加率を知るためにはほとんど全く信をおき得ないものである、ということになる。
 一八一〇年の人口を、本章で前述した一八〇〇年の[#「一八〇〇年の」は底本では「一八一〇年の」]修正人口と比較すると、これは、両年の人口実測の差よりも緩慢な増加を示している。そして更に、四七対二九・二分の一という出生の死亡に対する推定比率は実際以上であるよりもむしろ以下であるように思われたのであった。しかもこの比率は、富みかつ人口稠密な国土としては全く異常なものである。それは一国の人口に毎年七九分の一を加え、そしてそれが継続するならば、本篇第十一章の第二表によれば、五十五年以下にして人口を倍加するであろう。
 これは事の性質上永続的たり得ない倍加率である。それは、農業と工業との両者における、労働に対する需要の偉大なる増加並びに生産力の偉大なる増加に刺戟されて、生じたものである。これらは、人口の急速な増加に対し最も効果的な奨励をなす要素である。ここに生じた事実は、人口原理の適切な例証であり、そして大都市や工業や人民の漸次に獲得する富裕な贅沢な習慣にもかかわらず、もし一国の資源が急速な増加を許すならば、またもしこれらの資源が労働に対する需要の逓増をもたらす如くに好都合に分配されるならば、人口は必ずやそれと歩調を合わせて進むべきことの、証拠なのである。

    一八二五年(訳註――本章の以下の部分は第六版のみに現わる。)

 一八一七年に本書の最終版を刊行して後、第三囘の人口調査が行われたが、その結果は著しく吾々の注意に価するものである。
 一八二一年の実測、及びリックマン氏の公表報告の緒論にある一八一一年及び一八〇一年の修正報告によれば、大ブリテンの人口は、一八〇一年には一〇、九四二、六四六であり、一八一一年には一二、五九六、八〇三であり、一八二一年には一四、三九一、六三一であった。
 最初に述べたようにして得られ、一八一一年に陸海軍に編入された多数の男子を含む、これらの数字は、一八〇〇年ないし一八一一年に一五パアセント、一八一〇年ないし一八二一年にはわずかに一四・四分の一パアセントを示している1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし陸海軍及び商業に加えられた六四〇、〇〇〇の男子のうち、三分の一以上は愛蘭《アイルランド》人と外国人であったはずであると計算されている。従って、一八〇一年及び一八一一年の現在人口にわずかに三〇分の一を加え、また一八二一年は平和であったから不在男子としてわずかに五〇分の一を酌量すれば、これら三つの時期に英蘭《イングランド》及びウェイルズの人口は、第一囘の実測に想像される脱漏を度外視して、一八〇一年には九、一六八、〇〇〇、一八一一年には一〇、五〇二、五〇〇、一八二一年には一二、二一八、五〇〇となり、一八〇〇年ないし一八一一年の増加は一四・二分の一パアセント、一八一〇年ないし一八二一年には一六・三分の一パアセントの増加を示すこととなる。これら二つの増加率の中《うち》、前者は人口を五一年にして、後者は四六年にして倍加するであろう。しかしながら、正当には現在人口に属する、陸海軍及び商業に従事する者の比率については、常に若干の不確実性があるはずであるから、また男子人口は他の理由により女子人口も浮動しているものであるから、増加率を女子人口のみによって測定しようというもっともな提唱が行われている。大ブリテンにおける女子の数は、一八〇一年には五、四九二、三五四であり、一八一一年には六、二六二、七一六であり、一八二一年には七、二五三、七二八であって、第一の期間には一四・〇二パアセント、第二の期間には一五・八二パアセントの増加を示している2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] Preliminary Observations, p. viii.
 2)[#「2)」は縦中横] Ibid.
[#ここで字下げ終わり]
 蘇格蘭《スコットランド》の増加をそれだけでとると、第一の期間には一三パアセント、第二の期間には一四・二分の一パアセントである。蘇格蘭《スコットランド》を除いた英蘭《イングランド》及びウェイルズの増加は、ことに第二の期間においては、女子のみから測定しても、総人口から測定しても、陸海軍その他のことを適当に斟酌すれば、ほとんど全く同一であり、これは、かかる斟酌が真に近いことの証拠である。同時に、もし一八〇〇年ないし一八二一年の期間の大部分は戦争であったために、男子人口が通常以上に多く死亡したとすれば、総人口の増加は女子の増加ほど大きな比率に上らなかったはずであり、もしかかる増加が見られるならば、それはおそらく過大の数の男子が陸海軍人として現在人口に加えられたのによるか、または蘇格蘭《スコットランド》及び愛蘭《アイルランド》からの流入によるものであろう、ということは、おそらく注意しなければならぬであろう。
 上記の数と増加率とは、リックマン氏が、『人口摘要』の『緒論』の中で与えているものであることは、前に述べたところである。しかし本章の前の方で、私は、第一囘の実測は一八一一年のものほど正確ではないということの、私には十分な根拠と思われると
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