ッだし相反する誤謬が互に是正し合っているかもしれぬからである。しかしそれらが基づいている出生率の斉一という仮定は、計算そのものによって誤りなることがわかる。これらの計算によれば、人口の増加は一七六〇年ないし一七八〇年の期間の方が、一七八〇年ないし一八〇〇年よりも急速であったというのであるが、しかし一七八〇年頃の死亡率は一八〇〇年のそれよりも、一一七対一〇〇の比率で大であったことがわかる。従って一七八〇年以前の出生率は一八〇〇年のそれよりも、遥かに大であったはずであり、しからざれば、人口はこの期間より[#「より」に傍点]急速に増加し得なかったことであろう。このことは、出生率の斉一というが如きものを仮定することを、立どころに否定するものである。
 私は実際、他国の類推とキング氏及びショオト博士の計算からして、出生率はこの世紀の初期及び中頃の方が末期よりも大であった、と仮定すべきであったかもしれない。しかしこの仮定は、『人口条令の結果』の中で与えられているよりも小さな人口を――ここで与えられている人口は小に過ぎると信ずべき有力な理由があるのであるが――この世紀の初期に与えることになるであろう。ダヴィナントによれば、一六九〇年における家屋の数は一、三一九、二一五であり、そしてこの計算は多きに過ぎると考えるべき理由はない。現在一戸当りの人数の比率は五・五分の三と想像されているが、これをわずか五人と見ても、六百五十万以上の人口となるが、この時から一七一〇年までに人口がほとんど百五十万も減少したとは全然信じ得ない。出生における脱漏が現在よりも遥かに大であり、そして死亡における脱漏よりも大であったのだということの方が、遥かに本当らしい。そしてこれは、前に言及した、この世紀の前半には出生から計算した人口増加は、出生の死亡に対する比率が保証するよりも遥かに大であるという観察によって、更に確証される。従ってあらゆる見地から見て、出生による計算はほとんど信頼し得ないものである(訳註)。
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〔訳註〕以上二つのパラグラフは第三版より現われたものである。
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 読者は、本書の論述の過程において、脱漏の疑を別としても、出生または死亡の記録簿は、常に人口の推算に対し極めて不確実な資料しか提供し得ないことが、わかったはずである。あらゆる国の事情は変化するから、それらは共に当てにならぬ指針である。出生は外見的により[#「より」に傍点]規則正しく見えるので、政治的統計家は一般に、死亡に優先してこれを彼らの推算の基礎として採用している。ネッケルは、フランスの人口推算に当って、伝染病や移民は死亡における一時的差異を惹起すものであり、従って出生が最も確実な基準である、と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかし記録簿における出生の外見的な規則性という事情こそが、時として大きな誤りに導くであろう。もしある国において、二、三年まとめての埋葬の記録簿を手に入れ得るならば、疫病《ペスト》や致命的伝染病は常に自《おのずか》らわかるであろう。それはその間には死亡が突然増加し、その後には更にいっそうそれが減少するからである。吾々はもちろんかかる外見からして、極めて短期間における大きな死亡率をそのまま包含してはならぬことに気がつく。しかし、出生の記録簿には、この種の指導は何もない。そして一国がその人口の八分の一を疫病《ペスト》によって失った後には、その後五、六年間の平均は出生数の増加を示し、従って吾々の計算は、人口の最も少かったちょうどその時に最大の人口を与えることになるであろう。これはジュウスミルヒの表の多くにおいて極めて顕著に現われ、なかんずくプロシア及びリトアニアに関する表において著しい。この後者の表は後の章に掲載するが、それによると、人口の三分の一を失った翌年には出生が著しく増加し、そして五箇年間の平均ではほとんど減少を示していないが、しかもこの時たるや、もちろんこの国が、以前の人口をほんのわずか恢復し得たばかりの時なのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] De l'Administration des Finances, tom. i. c. ix. p. 252. 12mo. 1785.
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 吾々は実際、一七〇〇年以来|英蘭《イングランド》に起った何らかの異常な死亡率については知るところがない。そして前世紀における出生及び死亡の人口に対する比率は、大陸の多くの国における如き大きな変化を経験しなかった、と想像すべき理由がある。同時に、既知の疾病流行季は、その暴威の程度に比例して、同様の結果を生じたことは確かである。そして近年死亡率に見られる変化は、吾々をして、同様の変化が以前には出生に関して生じたのであることを信ぜしめ、そして、現在は正しいとわかっている比率を過去または将来の時期に当てはめるに当っては、極めて注意深くしなければならぬことを、吾々に教えるのである。
[#改丁]

    第九章 英蘭《イングランド》における人口に対する妨げについて(続)(訳註――本章は第五版に新たに設けられたものである。)

 人口条令による一八一一年の報告は疑いもなく異常な結果を現わした。それは加速度的な大増加率を示し、都市の増加と工業に従事する人口の比率の増加にもかかわらず、人民の健康が大いに増進されたことを示すものである。かくしてそれは、一国の資源が急速に増加しつつある時には、ほとんどいかなる重圧の下においても、人口は直ちに増進を開始するということの、新しい適齢を提供したのである。
 一八〇〇年の人口の量、並びに記録簿に与えられた出生、死亡、結婚の比率は、出生の死亡に対する比率が四対三であり、死亡率が四〇分の一である場合に生ずべき増加以上の比率で、人口がしばらくの間増加したことを、明かに示している。
 これらの比率は、一国の人口に毎年一二〇分の一を加え、したがってそれが継続するとなれば、第十一章の第二表によれば、八三・五年ごとに人口を倍加せしめるであろう。これは、富裕にしてかつ人口稠密な国においては、増加よりはむしろ減少が合理的に期待される増加率である。しかし、かくの如き減少は少しも起らず、一八一〇年までは著しく加速度的に進んできたことがわかるのである。
 一八一〇年には、各教区からの報告によれば、陸海軍人等を三〇分の一加えて、英蘭《イングランド》及びウェイルズの人口は、一〇、四八八、〇〇〇と測定されたが1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、これは、同様にして測定された一八〇〇年の人口、九、一六八、〇〇〇と比較すると、十年間の増加が、一、三二〇、〇〇〇であることを示すものである。
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 1)[#「1)」は縦中横] See the Population Abstracts published in 1811, and the valuable Preliminary Observations by Mr. Rickman.
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 十年間の登録洗礼数は、二、八七八、九〇六、登録埋葬数は一、九五〇、一八九であった。従って出生超過は九二八、七一七で、これは右の二つの人口実測の示す増加数に遠く及ばない。この不足は、一八〇〇年の実測が事実より低すぎたか、出生及び埋葬の登録が不正確であったか、またはこれら両原因が一緒に働いたか、そのいずれかによってのみ、生じ得たものである。けだし、一八〇〇年の人口が正確に測定され、そして記録簿が一切の出生及び埋葬を包含しているならば、両者の差額は真の人口増加に及ばないよりむしろこれを超過するはずであり、換言すればそれは陸海軍等に属して国外で死んだものの数だけちょうどこれを超過するであろうからである。
 右の結果を生ずるについては両原因とも関係しているのであり、ただし後の原因すなわち記録簿の不正確の方が遥かに大きく関係がある、と信ずべき理由がある。
 この世紀を通じての人口を測定するにあたり1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、出生は常に人口数に対して同一の比率をもつものと想定されている。しかしかかる推定が、異る遠く隔たった時期の一国人口の極めて不正確な測定にしばしば導くものであることは、既に見たところである。しかしながら、一八〇〇年ないし一八一〇年において、人口は極めて急速に増加したことが知られているから、おそらくこの時期に出生率は本質的には低減しなかったのであろう。しかしもし、最後の実測が正確と仮定して、一八一〇年の出生を一八〇〇年の出生と比較するならば、その結果は、一八〇〇年の人口はその年の実測の示すよりも大である、ということになるであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] Page xxv. of the Preliminary Observations on the Population Abstracts, printed in 1811. にあるこの世紀を通じての人口の表を参照。
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 かくて一八一〇年に至る五箇年間の出生の平均は二九七、〇〇〇で、一八〇〇年に至る五箇年間の出生の平均は二六三、〇〇〇である。しかし、二九七、〇〇〇対二六三、〇〇〇の比をもってすれば、出生率を同一と仮定すれば、一八一〇年の人口一〇、四八八、〇〇〇に対して九、二八七、〇〇〇が一八〇〇年の人口でなければならず、これは人口実測の結果たる九、一九八、〇〇〇人とは異ってくる。一七九五年ないし一八〇〇年の人口増加が、表によれば、それ以前のたいていの五箇年間に比し異常に小さいことも、更に注意しなければならぬ。そして記録簿を一瞥すれば、一七九五年以後の五箇年間の出生率が、一七九六年及び一八〇〇年の減少数を含んで、一般的平均以上であるよりは以下であるらしいことがわかる。これらの理由により、またこの問題に関する一般的印象によると、おそらく一八〇〇年の実測が事実以下なのであり、そしてたぶん当時の人口は少くとも、九、二八七、〇〇〇、すなわち報告にあるよりも約一一九、〇〇〇だけ多かったのだと考えて、間違いないであろう。
 しかしこのように推定してみても、記録簿に現われている全十年間の死亡以上に出ずる出生の超過も、また出生の死亡に対する比率も、いずれも九、二八七、〇〇〇から一〇、四八八、〇〇〇に至る増加を説明するに足りないであろう。しかもこの増加が右の二つの時期の出生率で示されているよりも遥かに少いということは、おそらくなかろう。従って、非常に不正確なことがわかっている出生及び死亡の記録簿、なかんずく出生の記録簿における、脱漏について、必ずや若干の斟酌をしなければならぬのである。
 結婚の記録簿にはほとんどまたは全く脱漏がないと信ずべき理由がある。そしてもし吾々が、出生の脱漏を六分の一と仮定すれば、これは出生の結婚に対する比率を四対一に維持し、しかもこの比率は、他の根拠1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]から十分確証されるように思われる。で、もし右の仮定が許されるならば、死亡の脱漏をもって、十箇年間の死亡以上に出ずる出生の超過を、出生の超過によって測定された人口増加と一致せしめる如き数である、と考えてよかろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] See the Preliminary Observations on the Population Abstracts, p. xxvi.
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 十箇年間の登録出生数は、前述の如く、二、八七八、九〇六であり、これを六分の一だけ増加すれば、三、三五八、七二三である。登録埋葬数は一、九五〇、一八九であり、十二分の一を増加すれば、二、一一二、七〇四となる。前者から後者を引けば、一、二四六、〇一九が得られるが、これは出生の超過であり、十箇年間の人口増加であって、これを一八一〇年の修正人口、九、二八七、〇〇〇人に加えると、
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