しかしその配附はまもなく停止され、牧師や県会に限られることとなった。実際この記録は明かに、公的性質よりは私的性質を多くもっており、またたしかに一般配附を目的とする体裁をもっていないのである。
[#ここで字下げ終わり]
 スペインの人口の状態については、読者はよろしく、タウンスエンド氏の価値多く興味ある同国の旅行記を見られたい。読者はそこでしばしば人口原理が極めて面白く例証されているのを見るであろう。スペインは特別の一章を設けて論ずべきであったが、しかしそうすると本書のこの部分が余りに長くなる恐れがあり、多くの国から同じ性質の推論を引出す必要上ほとんど止むを得ず同じことを繰返すことになってしまう恐れがある。その上、タウンスエンド氏の見事な叙述にそれ以上加えることは私には出来そうもないのである(訳註)。
[#ここから2字下げ]
〔訳註〕この一パラグラフは、第二―第四版ではすぐ前の註の中の最後の一パラグラフをなしていたが、第五版から本文となった。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

    第七章 フランスにおける人口に対する妨げについて(続)(訳註――本章は第五版に新たに設けられたものである。)

 共和制第九年分の各知事の報告、並びにその後一八一三年に政府が発表した若干の報告は、私が想像したよりも低い出生率を与えているが、それだからといって私は前章の推算や仮定を変更した方がよいとは思わない。それはけだし第一に、これらの報告は、結婚の奨励と出生率とが最大であったと思われる革命の初期を含んでおらず、また第二に、それはやはり、前章がその説明を目的とした主たる事実、すなわち革命中の死亡にもかかわらずフランス人口が減少しなかった――もっともこれは出生率の増加よりもむしろ死亡率の低減によって生じたものかもしれないが――という事実を、十分に確証するように思われるからである。
 共和制第九年の報告によれば、出生、死亡、結婚の総人口に対する比率は、次の通りである、――
[#ここから表]
出生/死亡/結婚
三三分の一/三八・五分の一/一五七分の一1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]
[#ここで表終わり]
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] ジュネエヴのプレヴォ氏の手になる、本書仏訳第二巻八八頁の貴重な註を参照。プレヴォ氏は、第九年の出生、死亡、結婚の報告には脱漏がおそらくあろう、と考えている。彼は更に、一平方リイグ当りの人口比率は旧フランスでは一、〇一四であって一、〇八六ではないことを、証示している。しかしもし、記録簿に脱漏がありまた人口が過大に見積られている、と信ずべき理由があるのならば、真の比率はここに示したものとは本質的に異るであろう。
[#ここで字下げ終わり]
 しかしこれらは事実上、わずか一箇年の比率に過ぎず、これからは何ら確実な推論を下すことは出来ない。これらの比率はまた、常により[#「より」に傍点]小さな出生、死亡、結婚の比率を有っていたかもしれぬ昔のフランスより三、四百万大きい人口にも適用されている。更にまた、『議事要録』中の若干の記述によれば、記録簿が非常に注意深く記録されてはいなかったように思われる節が非常に多い。かかる事情の下においては、右の比率は数字の含意するところを立証するものとは見做し得ないのである。
 『統計論』の後に出版されたプウシェの『統計学要論』〔Statistique Ele'mentaire〕 によれば、共和制第十一年に、出生の総人口に対する平均比率を確かめるという表面の目的のために、シャプタル氏の命の下に一つの調査が行われた1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そして共和制第九年の報告の直後に、かかる調査が行われたことは、明かに、大臣が前記報告を正確と考えなかったことを証するものである。この目的を達するために、最も正確な報告を出しそうな村が、フランス全土に分布する三〇県から選ばれた。そして第八年、第九年、第十年分のこの報告は、出生率二八・三五分の一、死亡率三〇・〇九分の一、結婚率一三二・〇七八分の一を示している。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] P. 331. Paris, 1805.
[#ここで字下げ終わり]
 プウシェ氏は、人口の出生に対する比率は、この場合、以前に考えられていたより遥かに大であるけれども、この計算は実際の計測から得られたものであるから優先的に採用さるべきものと思う、と述べている。
 一八一三年に政府が発表した報告は、昔のフランスの人口を二八、七八六、九一一人としているが、これは、第九年の人口見積り二八、〇〇〇、〇〇〇と比較すると、一八〇二年から一八一三年に至るまでの一一年間に約八〇〇、〇〇〇の増加を示している。
 結婚の報告はなく、出生及び死亡の報告もわずかに五十県分だけである。
 この五十県では、一八〇二年ないし一八一一年の十年間に、出生総数は五、四七八、六六九、死亡総数は四、六九六、八五七であり、これは一六、七一〇、七一九の人口に対し、出生率三〇・五、死亡率三五・五を示すものである。
 これら五十県は、それが最大の増加を示しているから選ばれたのだ、と考えるのは当然である。実際それは、第九年の計測の時から県の全部において生じた増加のほとんど全部を含んでいる。従って他の県の人口はほとんど停止的であったに違いない。更に、結婚の報告が公表されなかったのは、それが不満足と考えられたからであり、すなわち結婚の減少と私生児の出生率の増加を示したからであろう、と推測して差支えなかろう。
 これらの報告、及びそれに伴う諸事情からして、革命以前の、及びその後の六、七年間――すなわち早婚[#「早婚」に傍点]が『議事要録』で言及され、『統計学要論』では出生率が二一、二二、二三分の一であると云われた頃――の、真の出生率がどれだけであったにしても、出生、死亡、結婚の比率は今日いずれもかつて想像されていたよりも著しく少い、と結論し得よう1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] 一七九二年に、早婚に極めて好都合な法律が通過した。これは第十一年に廃止され、これに代って一法律が発布されたが、これはプウシェによれば(p. 234.)結婚を著しく阻害するものであった。これら二つの法律は、一八一三年以前の十年間の出生及び結婚の比率の小なることを、革命勃発当初の六、七年間それが高くあり得たことと矛盾なく、説明するに役立つであろう。
[#ここで字下げ終わり]
 もしこの事実を認めるならば、革命前の人口見積りは不正確であり、そして人口は一七九二年以来増加よりはむしろ減少しているということに、明かになるのではないか、と問うものがある。これに対して私は明確に、そういうことにはならぬ、と答える。出生、死亡、結婚の比率は、国を異にするにつれて極めて異るものであり、また同じ国でも、時期を異にし事情を異にすれば、極めて異るものであると信ずべき有力な理由があることは、前数章で吾々の見たところである。
 この種の変化がスイスに起ったことは、ほとんど確実であるように思われる。健康の増進から我国に同様の結果が起ったことも、疑問の余地なき事実と考えてよかろう。そして、もし吾々がこの問題について蒐集し得る最上の典拠を少しでも信頼するならば、死亡率が、過去一、二百年の間に、ヨオロッパのほとんどあらゆる国において、低減したことは、ほとんど疑い得ない。従って、出生、死亡、結婚の率が小さくなっていながら、同一の人口が維持され、または決定的な増加が生じたとしても、単にそれだけの事実では吾々は少しも驚く必要はない。そして唯一の問題は、フランスの実情がかかる変化をあり得べきことと思わせるか否か、ということである。
 さて、革命以前のフランスの下層階級の境遇が極めて悲惨であったことは、一般に認められるところである。労働の労賃は、英蘭《イングランド》の労賃がほとんど十七ペンスであった当時に、一日約二〇スウすなわち十ペンスであり、両国の同じ質の小麦の価格はそれほど違わなかったのである。だからアーサ・ヤングは、ちょうど革命勃発当時のフランスの労働階級をもって、『病者も健康者も、英蘭《イングランド》の同じ階級よりも、七六パアセントだけ衣食が悪い、』と云っている1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。そしてこの言葉はおそらくいささか強きに過ぎ、かつ物価の真の差異を十分に斟酌していないけれども、それにしても彼れの著書は至る所当時のフランスの労働階級の窮乏状態を示し、そして生活資料の限界を極めて緊密に圧迫している人口の圧迫を物語る記述に満ちているのである。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] Young's Travels in France, vol. i. p. 437.
[#ここで字下げ終わり]
 他方において、革命と国有地分割とによって、フランスの農民の状態が決定的に改善されたことは、普く認められているところである。この問題に言及するあらゆる著者は、一部分は耕作の拡張により、また一部分は軍隊の需要により、労働の価格が著しく騰貴したことを、認めている。プウシェの『統計学要論』には、食料品の価格がほとんど変らなかったのに普通労働は二〇スウから三〇スウに騰貴した、と述べてあり1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、バアベック氏はその最近の『フランス農業旅行記』Agricultural Tour in France の中で2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、食事抜きの労働の価格が一日二十ペンスであり、そしてあらゆる種類の食料品は英蘭《イングランド》と同様の低廉さに復している、と云っている。これをもってすれば、フランスの労働者は、一日三シリング四ペンスを得る英蘭《イングランド》労働者と同じだけの生活資料購買力を得ることとなる。しかしながら、英蘭《イングランド》の普通日傭労働の労賃が三シリング四ペンスまで上ったことは一度もないのである。
[#ここから2字下げ]
 1)[#「1)」は縦中横] P. 391.
 2)[#「2)」は縦中横] P. 13.
[#ここで字下げ終わり]
 かかる叙述には多少の誤りがあるとしても、それは明かに、フランスの下層階級の境遇が著しく改善された事実を確証するに足るものである。しかし、この窮乏の圧迫からの解除が、死亡率の減少を伴わずに起ることは物理的不可能に近い。そしてもしこの死亡率の減少が急速な人口増加を伴わなかったならば、それは、必然的に出生率の減少を伴ったに違いないのである。一八〇二年から一八一三年に至る中間期に、人口は増加したように思われるが、しかしそれは徐々たる増加であった。従って出生、死亡、結婚の比率の減少、または慎慮的抑制の作用の増大こそが、当時の事情上吾々の期待すべきものである。人口増加率、気候の自然的健康性、及び都市と工業の状態が、ほとんど同一と思われる二国において、貧困の圧迫の強い方の国は、出生、死亡、結婚の比率も大である、という命題ほど、議論の余地なき命題はおそらくないであろう。
 しからば、従来想像されているように、一八〇二年以来フランスの出生率が三分の一であるからといって、ネッケルはその乗数として二五・四分の三ではなく三〇という数を用うべきであった、ということにはならない。もし革命前及び革命以来のフランスの労働階級の状態について述べた説明が幾分でも事実に近いとすれば、右の両時期における人口の増進速度はほとんど同一であるように思われるから、現在の出生率はネッケルの書いた時期には当てはめ得ないであろう。同時に、彼れの採用した乗数が低過ぎるということも、決してあり得ぬことではない。フランスの人口が、一七八五年から一八〇二年に至る間に、二千五百五十万から二千八百万に増加したとは、いかなる事情の下においても信ずることは出来ない。しかしもし吾々が、乗数が当時二五・四分の三でなく二七であると認めるならば、こ
前へ 次へ
全44ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
吉田 秀夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング