という方が本当らしい。フランス全土における出生の総人口に対する平均比率は、革命前には、ネッケルによれば、一対二五・七五であった2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。集っている知事の若干の報告によれば、多くの田舎の地方では、この比率は一対二二、二二・五、二三と、上っていることがわかっている3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。そしてこれらの比率はある程度、人口の一部が入営して不在なのによるのであろうが、しかしそれは主として、通常以上に多数の子供が出生したのによるものなることを、私はほとんど疑わない。もし、すべての知事の報告を一緒にしてみて、出生数が総人口に比して増加していず、しかも人口が減少していないことがわかるならば、それはネッケルの出生率が過小であるか――これは非常にありそうなことである、けだしこの原因から彼は人口を過小に見積ったように思われるから、――または戦死者以外の死亡が通常よりも少かったか――これは労働の価格の騰貴と離村向都から云って、ありそうなことである――のいずれかである、ということになるであろう。
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1)[#「1)」は縦中横] Tableau des Pertes, etc., c. ii. p. 14.
2)[#「2)」は縦中横] De l'Administration des Finances, tom. i. c. ix. p. 254.
3)[#「3)」は縦中横] Essai de Peuchet, p. 28.
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ネッケル及びモーオーによれば、革命前のフランスの死亡率は、一対三〇ないし三一・八分の一であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。地方人口の都市人口に対する比率が三・五対一であることを考えると2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]、この死亡率は異常に大であり、これはおそらく人口過剰から生じた窮乏によるものであろう。そして、ネッケルが全く是認しているところの3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]、アーサ・ヤングのフランスの農民の状態に関する記述4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]によれば、これは本当に事実であったように思われる。もし吾々が、この過剰人口の一部が除去されたために死亡率が三〇分の一から三五分の一に減少したと仮定すれば(訳註)、この有利な変化は、戦争によって辺境地方に生じた傷痍を癒やすに大いに役立つことであろう。
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1)[#「1)」は縦中横] De l'Administration des Finances, tom. i. c. ix. p. 255. Essai de Peuchet, p. 29.
2)[#「2)」は縦中横] Young's Travels in France, vol. i. c. xvii. p. 466.
3)[#「3)」は縦中横] De l'Administration des Finances, tom. i. c. ix. p. 262 et seq.
4)[#「4)」は縦中横] 一般的には彼れの極めて貴重な Tour の c. xvii. vol i. を、及び同書の他の幾多の場所に散在しているこれらの問題に関する正しい観察を、参照。
〔訳註〕ここのところには第二版では次の註があった、――
『もし国内に残っていたものの間の死亡率が低減しなかったことがわかるならば、それは嬰児の比率の増加に帰せられ得ようが、これは本篇第六章で、プロシアの表に関して述べた事情に該当する。』
なお右に第六章とは『流行病が死亡記録簿に及ぼす影響』と題する章である。
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本当らしいところは、上述の両原因が部分的に働いた、というところであろう。出生は増加し、国に残っていた者の死亡は減少した。そこで、この二つの事情を一緒にしてみると、知事の報告が全部わかったときには、戦場や暴力で斃れたものを含めても、革命中に死亡が出生を超過しなかったことがおそらくわかるであろう。
知事の報告は共和制第九年についてなされ、一七八九年と比較するということになっている。しかし出生の人口に対する比率が単にこの第九年の一箇年についてしか得られないのであるならば、それは革命中の出生の人口に対する平均比率を示さないであろう。この事件によって惹起された混乱中に、何らか正確な記録簿が維持されていたとは思われない。しかし理論上、私は、戦争勃発勅直後、及び戦争中の他の時期には、出生の総人口に対する比率は、一八〇〇年度及び一八〇一年におけるよりも大であったと考えざるを得ない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。もし、革命中結婚数が増加しなかったことが知事の報告によりわかるならば、その事情は明かに、本章で前述した私生児出生の異常な増加によって、説明されるものであり、これは現在は出生総数の十一分の一に上っているが、ネッケルの計算によれば、革命前には四十七分の一であったものである2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 最近公刊された 〔Statistique Ge'ne'rale et Particulie`re de la France, et de ses Colonies.〕 には、第九年についての知事の報告が載っているが、これは右の推測を保証するように思われる。出生は九五五、四三〇、死亡は八二一、八七一、結婚は二〇二、一七七である。これらの数字はネッケルの推算とかなり違うが、しかし本書における一切の計算は、総人口についてもまた一平方リイグ当りの人口比率についても、フランスの旧領土が革命の初期よりも現在の方が人口が多いとしている。憲法議会の時期における人口の見積りについては既にこれを述べた。そしてこの時期において一平方リイグ当りの人口は九九六と計算された。共和制第六年には、土地台帳局の調査の結果は、人口二六、〇四八、二五四、一平方当り人口一、〇二〇を示している。第七年には、デペエルは、フランスの総人口を三三、五〇一、〇九四と計算しているが、そのうち二八、八一〇、六九四は旧フランスに属するものであり、一平方リイグ当りの人口は一、一〇一としている。しかしこの計算は憲法議会の行った第一囘推算を基礎とするものと思われるが、これは後に至って過大なりとして排斥されたものである。第九年及び第十年にはピイドモント及びエルバ島が合併されたので、総人口は三四、三七六、三一三に増加し、一平方リイグ当りの人口は一、〇八六となった。旧フランスに属する数は述べてない。それは約二八、〇〇〇、〇〇〇、であったように思われる。
かかる計算があるにもかかわらず、この著者はネッケルよりも低い出生倍数をとり、ネッケルの比率は都市では依然正しいけれども、地方では出生率は二一分の一、二二分の一、二二・五分の一、二三分の一と増加していると述べ――これは彼によれば徴兵忌避のための早婚によるものである――そして全体として二五が適当な倍数である、と結論している。しかしもし吾々がこの倍数を採用すれば、人口は二千八百万でなく二千五百万以下となる。実際なるほどただ一年限りの出生からは何らの正しい推論も引出し得ないけれども、しかし、これが論及された唯一の出生なのであるから、矛盾は明かである。おそらく今後の報告がこの難点を解決するであろうし、またその後の年の出生はもっと多いことであろうが、しかし私は、本文で述べた如くに、出生率の最大の増加は、第九年以前、おそらくは共和国が始って最初の六、七年の間、既婚者が軍籍から除かれていた頃のことであった、と考えたい。もしこの国民の農業部分の状態が革命によって改善されたとすれば、私は、出生率及び死亡率の両者が低減するものと確信せざるを得ない。フランスのような快適な気候の下においては、下層階級の極めて甚だしい窮乏のみが、ネッケルの云う如き三〇分の一という死亡率や二五・七五分の一という出生率を生じ得るであろう。従って、この仮定によれば、第九年の出生は不正確ではなく、そして将来は出生及び死亡は人口に対しそれほど高い比率にはならないかもしれない。この点に関するフランスと英蘭《イングランド》との相違は全く驚くべきものがある。
この著作のうち人口に関する部分は、この問題に関し大した知識なしに書かれたものである。その一記述の如きは極めて妙である。結婚の人口に対する比率は一対一一〇、出生のそれは一対二五と書かれているが、この事実から産児の四分の一が結婚まで生存すると推論されている。もしこの推論が正しいとすれば、フランスの人口はまもなく減退することであろう。
生命の価値を算定するに当って、この著者はビュフォンの表を採用しているが、これは主としてパリ周辺の村落から得られた記録簿を基礎としているものであって、全然不正確なものである。これは出生時における生命の蓋然率をわずかに八年強としているが、これは、都市と地方とを一緒にすれば、正しい平均に遥かに及ばざるものである。
この著作には、私が既に再三論及したプウシェの論文に載せてある細論に対し、特記に価するものはほとんど何も加えられていない。全体として、私は、本章における私の推論はおそらくは十分な根拠を欠くことであろうが、そのいずれをも変更すべき十分な理由を認めないのである。実際、革命中の実際の人間の喪失に関するサア・F・ディヴェルヌワの計算を採用するに当って、私はこれが事実によって支持されていると考えたことはない。しかし、読者は、それを私が採用したのは、それが厳密に正しいと考えたからであるよりはむしろ、例証のためであったことを、気附かれることであろう。(訳註――この註が最初に現われたのは第三版からである。ただし右の形で現われているのは第五―六版であり、第三―四版では、第一パラグラフの、『しかしこの計算は憲法議会の行った第一囘推算を基礎とするものと思われるが、これは後に至って過大なりとして排斥されたものである。』の一文はなく、またその少し後の、『総人口は三四、三七六、三一三に増加し』の次には、次の一文が挿入されていた。『そして第七年とほとんど同一数が旧フランスに属するものと想像され、』)
2)[#「2)」は縦中横] Essai de Peuchet, p. 28. この私生児出生の増加が、サア・フランシス・ディヴェルヌワが指摘しているように、かの恐るべき収容所たる育児院に異例の数の子供を遺棄せしめることになったのは、極めてありそうなことである。しかしおそらくこの残酷な慣習は特定の地方に限られ、そして遺棄されたものの数も、全体としては、出生総数に対しては、何ら大きな比率には上らなかったことであろう。
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サア・フランシス・ディヴェルヌワは曰く、『革命や戦争でどれだけ人が死んだかを調べることの出来る場所は戦場や病院だと思う者は、政治算術の第一原理をまだ知らないものである。それによって殺された者の数よりも、それによって今まで出生を阻まれ、また将来も阻まれるべき、子供の数の方が遥かに重要である。これこそがフランス人口の蒙った最大の痛手なのである。』また曰く、『死滅した男子総数の中《うち》、仮にわずか二百万が同数の女子と結婚したとすれば、ビュフォンの計算によると、この二百万の夫婦は、三十九歳で親と同数の子供を生み出すためには、一千二百万の子供を産まなければならぬこととなる。この見地からするならば、かかる人間の破壊の結果はほとんど測り知るべからざるものとなる。けだしそれは、フランスが哀惜している二百五十万という現実の損害よりも、それが一千二百万の子供の出生を阻んだ点において、遥かに大なる影響を与えたのであるからである。フランスがこの恐るべき傷痍がいかなるものであるかを覚《さと》るのは、遠い将来ではない1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。』
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1)[#「1)」は縦中横] Tableau
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