り集められる。家畜の近寄れないところに、農民はしばしば靴に釘をつけて乾草をつくる。ある場所では三|吋《インチ》にもならぬ牧草が年に三度も刈り取られる。そして谿谷では、草地は球転がしの芝生のように短かく刈られ、鋏で刈り込んだように凹凸がない。スイスでは、ノルウェイと同じく、同様の理由で刈取技術は最高度の完全さに達している。しかしながら、谿谷の土地の改良は主として家畜から生ずる肥料に依存しなければならぬから、乾草の量と家畜の数とが相互に制限し合うことは明かである。そして人口はもちろん家畜の生産高によって制限されるから、これを一定の点以上に増加することは不可能であり、しかもこの点はそれほど高くはないと思われる。従ってスイスの平地地方の人口は、前世紀中、増加したけれども、山地地方では停止的であったと信ずべき理由がある。ミウレ氏によれば、ヴォー州のアルプス地方では人口は極めて著しく減少したというが、しかしこの事実に関する彼れの証拠が極めて不確実であることは前に触れた。アルプス地方の家畜が以前より減ったということはないらしい。そしてもし住民の数が実際に以前よりも少くなっているとしても、それはおそらく子供の数が減少したのと生活様式が改善されたのとによるものであろう。
もっと小さい州では、工業が開始され、これは、より[#「より」に傍点]多量の職業と、同時にまた穀物を購入のためのより[#「より」に傍点]多量の輸出とにより、もちろん著しく人口を増加せしめた。しかしスイスの学者の意見は一般に、工業が確立された地方は、大体において、健康と道徳と幸福との点において損害を受けている、というに一致しているように思われる。
牧畜は本来、それが雇傭し得る人数よりも遥かに多数の者に対する食物を生産する性質をもっている。従って、厳密な牧畜国では、多くの者は怠惰に暮し、またはせいぜいのところ不十分な仕事しかしていない。かかる事態は、当然に、移住の気性を起させるものであり、そしてスイス人がかくも外国の仕事に従事している主たる理由なのである。父親が(訳註)一人以上の息子を有つ時には、農場で必要とされないものは、結婚し得る唯一の機会として、兵役に応ずるか、またはある他の方法で移住しようという気に、強く誘われるのである。
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〔訳註〕『父親が』以下の文章は第二版ではこれとかなり異っていた。それは第三版でそのまま踏襲されたが、第四版でかなりの訂正を加えられ、更に第六版でその上に加筆が行われて、この形となったものである。しかし内容上の変化があるわけではない。
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上述の如く予防的妨げが極めて著しく行われている国に対し通常以上の移住の精神が働くならば、人口減退に関するかくも一般的な叫声がある時期にすら、これが人口増加に対する一時的妨げを生み出し得たということは、ありそうもないことではあるが、しかし可能ではある。もしそうであるとすれば、それは疑いもなく下層階級の人民の境遇の改善に貢献をしたのである。この時期の直後に、スイスを旅行した外国人はすべて、いずれもスイスの農民の状態が他国のそれよりもよいことに、気附いている。私は、最近のスイス旅行で、それが話で聞いたほどよくないのを見て、いささか失望した。この不幸な変化の大部分は、最近の擾乱中の人民の喪失と苦難とに帰するのが正しいであろう。しかし一部分はおそらく、人口を増加せんとする各政府の誤れる努力と、また指導が誤らずかつ一時的には人民の愉楽と幸福を増進することになる努力の、最終的帰結とに、帰すべきであろう。
私はユラ地方のジュウ湖に旅行した時、右の最後の種類の結果を見て、大いに打たれたことがある。吾々の一行が湖の隅の小さな宿屋に著《つ》くや否や、そこの女将は附近の全教区の貧困と窮乏を訴え始めた。彼女は曰う、国の産物は少いのに、住民は充ち満ちている。また学校へ通うべき年頃の少年少女は結婚する。この早婚の習慣がつづく間は彼らは常に悲惨な生活をすべきである、と。
吾々を後にオルベ河の水源へと案内してくれた農夫は、この問題をもっと立入って論じ、私が今まで出会ったことのある誰にも劣らぬほど人口原理を理解しているように思われた。彼は曰う、女は子供をたくさん産み、山の空気は極めて清く健康的なので、絶対的欠乏の結果死ぬ者の外は子供はほとんど全く死なない。土地は痩せているので、毎年成人する人間に職業と食物を与えるには足りない。労賃はその結果として非常に低く、一家をちゃんと養っていくには全く足りない。しかし社会の大部分の窮乏と餓えに瀕する生活も、他人のための警告とはならず、彼らは引続き結婚をし、自分で養うことの出来ないたくさんの子供を産みつづけている、と。この早婚の習慣は実際地方の悪習[#「地方の悪習」に傍点]と呼ぶべきものである、と彼は云い、そして彼はその結果として生じなければならぬ必然的不可避的な不幸を痛感するの余り、男子が四十歳まで結婚することを禁じ、そして四十歳になった時には、六人や八人も子供を産まないで、二人か三人しか産まない『老嬢[#「老嬢」に傍点]』とだけ結婚を許す法律が、制定さるべきである、と考えているのである。
私は、彼がこの問題を論じた真面目さ、ことにその結論の提案には、感心せざるを得なかった。彼は過剰人口から起る窮乏を非常に強く目に見、体験したからこそ、かかる過激な救治策を提案したのに違いない。訊ねてみたら、彼自身非常に早婚をしたことがわかった。
この問題に関する理論的知識の点で、彼が誤を犯した唯一の点は、その推理を余りにも不毛な山勝《やまがち》な地方に限定しすぎ、それを平野にまで及ぼさなかったことにあった。おそらく彼は、肥沃な所では、穀物や仕事が豊富なので、この困難は除去され、そして早婚が許される、と考えたのであろう。平野にそれほど住んだことがないので、彼がこの誤に陥ったのは当然であった。ことにこの平野では、この難点は、啻に問題の範囲が広汎であるため、いっそう隠蔽されるばかりでなく、また実際にも低湿地や都市や工場により当然に生ずるより[#「より」に傍点]高い死亡率によって、より[#「より」に傍点]小さくなっているのである。
彼がその国の優越的悪習と名づけたところのものの主たる原因について質問したところ、彼は理論的に非常に正確にそれを説明した。彼は曰う、石磨き工業が数年前に始まり、これは一時繁昌を極め、附近全体に高い労賃と職業を与えた。家族を養う便宜と子供達に早くから職業を見出すの便宜とは、早婚を大いに奨励した。そしてこの習慣は継続していったが、そこへ流行の変化や偶発事やその他の原因が起って、この工業はほとんど駄目になってしまった、と。彼はまた、近年非常に大きな移民が行われているが、しかしこの増殖法が極めて迅速に進むので、移住も国の過剰人口を解決するに足らず、その結果は彼が私に述べた如き、また私も一部分は目撃した如き、状態となったのである、と述べた。
その他、スイス及びサヴォイの諸地方の下層社会の者と話したときにも、その多くの者は、ジュウ湖の友人の如くに人口原理が社会に与える影響を理解するほどこれに精通してはいなかったけれども、しかも彼ら自身の個人的利害に影響するものとしてこれを十分明かに理解し、家族を養い得るという相応の見通しもなくして結婚すればおそらく自身に招くべき害悪に、十分気が附いているのを、私は見出した。これらの問題について広く行われている一般的観念から見れば、一般人をして、人口原理と、低廉な労賃及び貧困を生ずるその結果とを、理解せしめるのは、決して困難な仕事ではなかろう、と私は云いたい。
スイスには貧民のための絶対的備えはないけれども、各教区は一般に公共用の若干の領主権と土地財産とを所有しており、そしてそれ自身の貧民を養うものということになっている。しかしながらこの基金は限られているから、もちろんしばしば全く不十分となるであろう。そこで時々この目的のために義捐金募集が行われる。しかしこの金額は比較的僅少でありかつ不確実なので、英蘭《イングランド》の教区税と同一の悪結果は及ぼさない。近年、教区に属する共有地の多くが個人に分割されたが、これはもちろん、土壌を改良し人口を増加せしめる傾向があった。しかしその処理の仕方からして、それはおそらく余りにも組織的な結婚奨励たるの作用を演じ、そして貧民の数の増加に寄与したのである。最も富裕な村の附近に私はしばしば最多数の乞食を目撃した。
しかしながら、農業を促進せんとするベルン経済学会の努力は若干の成功を収め、国の資源の増大はより[#「より」に傍点]以上の人口を容れる余地を作り、そして近年生じた人口増加の、全部ではないとしても大部分に対して、適当な生活手段を提供した、と信ずべき理由がある。
一七六四年に、ベルン全州の人口は、ヴォー州を合せて、三三六、六八九であった。一七九一年にはそれが四一四、四二〇に増加していた。一七六四年ないし一七七七年には、その増加は毎年二、〇〇〇の割合で進む、一七七八年ないし一七九一年には毎年三、一〇九の割合で進んだ1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] Beschreibung von Bern, vol. ii. p. 40.
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[#改丁]
第六章 フランスにおける人口に対する妨げについて
革命前のフランスの教区記録簿(訳註1)は、特に慎重に記録されたわけでもなければ、特に長年月に亙って記録されたわけでもなく、また発表されたことのあるもので極めて異常な結果を示すものもほとんどないから、革命に伴った事情で大いに世を驚かした事情がなかったならば、私は何も特にこの国を特別の一章を設けて論じはしなかったであろう。その事情とは、かくも長期の破壊的の争乱の間死亡者が多かったにもかかわらず、人口が減少しなかったということである1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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1)[#「1)」は縦中横] 本章は一八〇二年に書かれ、アミアンの平和以前のフランスの状態について述べているものである。(訳註――この註は第六版のみに現わる。)
〔訳註1〕『教区記録簿』は第二版では『死亡表』とある。
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各県知事の報告にもとづいた大きな国家的著作が、現在パリである程度進んでおり、これが完成した暁には、統計学一般の資料に極めて貴重な寄与をなすものと期待して差支えないであろう。しかしながら全県知事の報告はなお完成していないが、その監督主任をしている人から、私は、フランスの旧領土の人口は革命中減少するよりはむしろ増加したことは、確実だということだけは、既にわかっている、と確言された。
かかることは、もし本当であるとすれば、極めて有力の本書の一般原理を確証するものである。そして差当りこれを事実と見るならば、かかる事柄とどのようにして起り得たかをやや詳細に辿ることは、この問題に若干の光明を投ずることとなろう。
あらゆる国には、常に、年々青春期に達する人間の中《うち》、年々結婚する者の数以上に出ずる超過が、徐々として蓄積されて、出来上る、未婚者のかなりの一団がある。この一団がそれ以上の蓄積を停止するのは、この一団の数が、年死亡がその増加と等しくなるほどに、なったときのことである。ヴォー州では、前章に明かな如くに、事実上結婚していない寡婦鰥夫を含んでこの一団は、既婚者の総数と等しい。しかし、死亡率も結婚への傾向もスイスより遥かに大なるフランスの如き国では、この一団は総人口に対してそれほど大きな比率をなしていない。
プウシェ氏がパリで一八〇〇年に著わした『一般統計論』〔Essai d'une Statistique Ge'ne'rale〕 の中のある計算によれば、フランスにおける一八歳ないし五〇歳の未婚男子数は一、四五一、〇六三であり、同じ年齢の未婚既婚を問わず男子の総数は五、〇〇〇、
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