道に沿っていて、明かに移住に便利な位置である。そして事実上、それは都市や平低地方に対する人間を繁殖させる教区たる役割を演じたように思われる。そして成年の一定数が年々出ていくので、残った者全部には、結婚して多数の子供を養う余地が作られたのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. table xiii. p. 120.
 2)[#「2)」は縦中横] Id. table i. p. 11.
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 特定教区における移住の習慣は、啻に環境に依存するばかりでなく、またおそらくしばしば偶然の出来事に依存する。私は、三、四囘の移住が大成功を収めれば全村がしばしば冒険心を与えられ、また三、四囘のそれが失敗すればこれと反対の精神が生ずることを、ほとんど疑うことが出来ない。もし移住の習慣がレエザンの村に導入されたならば、出生率が直ちに変化すべきことは疑い得ない。そして二十年を経た後には、その記録簿を調べた結果は、ミウレ氏が計算した当時にサン・セルジュの教区の比率と異っていただけの相違を、同じくミウレ氏の当時の比率に対し示すことであろう。従って、より[#「より」に傍点]大なる死亡率の外になお他の諸原因が共合して、出生率による異る時代における人口の測定を著しく不正確ならしめることが、わかるであろう。
 ミウレ氏が蒐集した事実はすべて価値多きものである。もっとも彼が下した推論は常に必ずしも価値多きものとは考え得ないけれども、彼は、ヴヴェーについて、若干の計算を試みているが、これは結婚の出産性に関する問題を真に確かめ、そして――当時この特定目的を有っていたわけではないが――これを測定する通常の方法の不正確を証示する性質を、もつものである。彼は、三七五人の母親が二〇九三人の生産児を産んだことを見出した。これは各一人の母親が[#式(fig45455_03.png)入る]人または約六人の子供を産んだことになる1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。しかしながらここで母というのは、全部実際の母のことであって、妻のことではない。しかしヴヴェーにおける妻の中《うち》子供を産まぬものが、彼れの見出した如く四七八人中二〇人の割合であるということを斟酌してもなお、既婚婦人は各々五・三分の一人以上の子供を産んだことがわかる2)[#「2)」は縦中横、行右小書き]。しかもなおこれは、その住民が自然が要求する時期になっても結婚せず、また結婚しても当然もつべきほどの子供をもたないというので、彼が非難しているように思われる都市の、ことなのである3)[#「3)」は縦中横、行右小書き]。ヴォー州における年結婚の年出生に対する一般的比率は一対三・九であり4)[#「4)」は縦中横、行右小書き]、従ってもちろん、普通の計算法によれば、各結婚は三・九人の子供を産むことがわかるであろう。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. p. 29 et seq.
 2)[#「2)」は縦中横] 再婚や三婚があるから、結婚の出産性は常に既婚婦人の生殖力よりも低くなければならぬ。夫の数は考慮せずに母だけがここで考慮されている。(訳註――この註は第二版には全然なく、また第三版では次の形であった。『ミウレ氏はこの計算における母が一度以上結婚したものかどうかを述べていない。再婚や三婚があるから、結婚の出産性は常に既婚婦人の生殖力よりも低くなければならぬことは明かである。夫の数は考慮せずに母だけがここで考慮されているということは、ありそうなことである。』本文の形になったのは、第四版以後のことである。)
 3)[#「3)」は縦中横] 〔Me'moires, etc., par la Socie'te' Econ. de Berne. Anne'e 1766, p. 32.〕
 4)[#「4)」は縦中横] Id. table i. p. 21.
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 ヴォー州を八つの異る地区に分って、ミウレ氏は、次のことを発見した。すなわち七都市においては平均寿命は三六で、生命蓋然率または生れた者の半数が生存する年齢は三七年である。三六箇村においては、平均寿命は四〇、蓋然率は四七である。ユラ地方の七教区においてはこれら二つの比率は三八及び四二であり、十二の穀物生産教区においては三七及び四〇、大葡萄園地域の十八教区においては三四及び三七、葡萄園と高台との交錯した六教区においては三三・九及び三六、沼沢地の一教区においては二九及び二四である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. table viii. p. 92 et seq.
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 もう一つの表から見ると、一五歳以下で死亡する者の数は、特別なレエザンの教区においては五分の一以下であり、アルプス及びユラの他の多くの教区においては四分の一以下であることがわかる。ヴォー州全体としてはそれは三分の一以下であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. table xiii. p. 120.
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 ロオザンヌやヴヴェーの如き大都会の若干においては、多数の外人が移住しているので、成人の一六歳以下の者に対する比率は、レエザン教区とほとんど同一であり、ほぼ三対一であった。移出民の多くない教区においては、この比率は約二対一であった。そして住民を他国に送り出す教区においては両者はもっと同数に近かった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. table xii.
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 ヴォー州の総人口を、ミウレ氏は、一一三、〇〇〇、その中《うち》七六、〇〇〇は成人としている。従って、成人の一六歳以下の者に対する比率は、全州を通じて、二対一であった。この七六、〇〇〇の成人の中《うち》、現存結婚は一九、〇〇〇、従って結婚人員は三八、〇〇〇で、結婚していない者も同数であった。もっともミウレ氏によれば、後者の中《うち》おそらく九、〇〇〇は寡婦|鰥夫《かんぷ》であった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き、底本では欠落]。周知の移住があるにもかかわらず、かく多数の結婚していない者がいるのであるから、かかる移住が年結婚の数に著しい影響を与え、そして人口増加を阻害されたと想像すべき根拠は、ほとんどないのである。
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 1)[#「1)」は縦中横] 〔Id. premie`re partie, p. 27.〕
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 ミウレ氏の表によれば、ヴォー州における年結婚の総人口に対する比率はわずかに一対一四〇に過ぎず1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]、これはノルウェイよりも低い数字である。
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 1)[#「1)」は縦中横] Id. table i.
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 ミウレ氏のこれら一切の計算は、彼が考察した全地域を通じて、人口に対する予防的妨げが著しい程度で作用していることを意味するものである。そして同一の習慣が、スイスの他の地方にも、――もっとも場所が異るに従って、環境や人民の職業が健康性を左右しまたその地方の資源が人口増加に対する余地を作るか否かによって、場所により著しく差異はあろうが――行われている、と信ずべき理由がある。
 ベルン市では、一五八三年ないし一六五四年に、最高会議は、四八七家族がブルジョアの階級に加わることを認めたが、その中《うち》三七九家族は二世紀の間に消滅し、一七八三年には、わずかその中《うち》一〇八家族が残っているに過ぎなかった。一六八四年ないし一七八四年の百年間に、二〇七のベルン人の家族が消滅した。一六二四年ないし一七一二年に、ブルジョアの資格は八〇の家族に与えられた。一六二三年には、最高会議は一一二の異る家族を集めたが、その中《うち》残るものはわずかに五八に過ぎなかった1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] Statistique de la Suisse, Durand, tom. iv. p. 405. 8vo. 4 vols. Lausanne, 1796.
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 ベルン市の結婚していない者の比率は、寡婦鰥夫を含めて、成人の半数より遥か以上であり、十六歳以下の者の以上の者に対する比率は約一対三である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。これは予防的妨げが強力に働いていることの、有力な証拠である。
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 1)[#「1)」は縦中横] Beschreibung von Bern, vol. ii. table i. p. 35. 2 vols. 8vo. Bern. 1796.
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 ベルン州の農民は常に富裕をもって聞えているが、それは疑いもなく大いにこういう原因によるものである。あらゆる農民は、兵士として必要な武器や装具を所有していることを立証しなければ、結婚の許可を得ることが出来ないという法律が、しばらくの間行われていた。これは同時に極貧民を結婚させないものであり、それは多くの他の者に、ある程度の勤勉と節約を行わなければその希望を達し得ないことを知らしめて、もって彼らの習慣を好転せしめたであろう。この結婚という目的を抱いて国内か国外かで働いていた若者は、許可を得るに必要な額を得た時には、その誇りがむしろ高まり、単に結婚の許可を得るだけのものでは満足せず、更に家族扶養の資ともいうべきものを手に入れ得るまでは、引き続き働きつづけるであろう。
 私は、スイスに滞在中、比較的小さな州については詳しいことを知り得なくて大いに失望したが、これは国が争乱の中にあったために出来なかったのである。しかしながら、これらの小さな州はたいてい牧場であるから、人民の異常な健康や予防的妨げの絶対的必要という点で、ヴォー州のアルプス地方の教区に非常に似ているに違いない、と考えるべきである。ただし通常以上の移住の習慣や工業の開始(訳註1)によって、これらの事情に変化を生じている場合は、別である1)[#「1)」は縦中横、行右小書き]。
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 1)[#「1)」は縦中横] ジュネエヴのプレヴォ氏は、本書の飜訳で、綿工業の開始された小州グラヴィについて若干の報告を行っている。それによると、この工業は最初は極めて繁栄し、そして早婚の習慣と著しい人口増加とを生じたが、しかしその結果として労賃は極度に低廉となり、そして人口の四分の一は、衣食の道を慈善に求めるに至った。出生及び死亡の人口に対する比率は、ヴォー州における如くに一対三六及び一対四五ではなく、一対二六及び一対三五となった。そして最終の飜訳に現われたその後の報告によれば、出生の人口に対する比率は、一八〇五年ないし一八一九年の一四年間に、一対二四であり、死亡のそれは一対三〇であった。
 これらの比率は早婚の普及を示すものであり、そして、かかる地位とかかる境遇とにおけるその当然の結果は、――大きな貧困と大きな死亡率である。以上の知識をプレヴォ氏に与えたヘエル氏は、早くからかかる結果を予見していたように思われる。(訳註――この註の全部は第六版のみに現わる。)
〔訳註1〕『工業の開始』は第二版では『若干の地方に生じている工業の開始』とあった。
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 厳密な牧畜国の人口に対する限界は極めて明瞭である。山地の牧場ほど改良しにくい土地はない。それは必然的に主として自然に委ねざるを得ず、そして適度の家畜を入れてしまうと、それ以上ほとんどどうすることも出来ない。スイスのこれらの地方の大きな困難は、ノルウェイの場合と同様に、夏に山地で養われた家畜を冬の間養うべき十分な秣《まぐさ》を得ることである。この目的のために、最大の注意を払って牧草が刈
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