れかね、つらつら邸内の、光景に目を注ぐに。思ひなしかや、昨日は一昨日よりも、今日は昨日よりも、打傾かるるもの多く。かつては一郎が悲歌慷慨せざるを笑ひてし、都督殿が面には、何となく喜色顕れしさへあるに。その日の夕べかねてより、あらゆる志士と、政府の間に斡旋して、人材登用の、中門の鍵を預れりとの噂ある、有名なる権畧家、朝野渡といへるが訪ひ来りて、先生との密談久しかりし際。一郎はふと用事のありて、その応接所の廊下まで至りしに。障子を漏れし主客の対談。
『じやあいつ辞令を下させてもいいね』
『さうさ。だが四五日は待つてくれ。少し都合があるから』
聞き耳立てし一郎の、俄に立止まりしその気配に、中止となせし話し声。誰だと先生の声かけたまふに、決然として大村と答へ。踵を返して書生部屋に、この大疑問の、解釈を試みんとする一刹那。またも一郎が机の上に、一郎を驚殺するの一封書は載せられゐぬ。
『何ツ、父上は御病死とや。獄内にツ、ちゑー残念ツ』
その一書を握りたるまま、押入より蒲団引きずり出し。頭より打|被《かつ》ぎて、夜もすがら悲憤哀歎の声を漏らしぬ。
その翌々日満都の新聞紙上欄外に、二号活字もて数行の殺伐文字は掲げられぬ。
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昨夜九時頃、――において、朝野渡氏を、車上に要撃したるものあり。電光一閃氏が頭上に加はりしも早速の働き、短銃《ピストル》を連発せしにより。曲者はその目的を達し得ずたちまちに踪跡を晦《くらま》したり。車夫の言によれば、壮士躰の男にて、面貌頗る、国野為也氏方の書生、大村某といへるものに彷彿たりと。なほ後報を竢つて記すべし。
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国野先生は、この新聞を手にして、呆然自失したまふところへ。令嬢の梅子殿、顔色かえて入り来り。
『お父様、大村の事が新聞に出てゐるさうでございますね。昨日の朝、あれがでまする時、私にこの一封を渡しまして。二三日の内私の事が新聞に出ました時、これを先生にあげて下さい。それまでは決して貴嬢《あなた》の手を離さず、大事に保存しておいて下さいと。頼みましたもんですから』
と、差し出すに、さてはとうなづきて披《ひら》き見れば。
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かつて聞く、士に貴ぶところのものは気節なり、気節なきは士にあらず。今や時勢滔々奢侈に流れ、人心華美を衒《てら》ふ。ここにおいてか天下の士、気節の貴ぶべきを遺《わす》れて、黄金光暉の下に拝趨す。それ黄金は士気を麻痺するの劇薬、名節を変換するの熔爐なり。今の士相率きひて、媚を権門に納《い》れ、※[#「肄」の「聿」に代えて「欠」、第3水準1−86−31]《かん》を要路に通ずるは、その求むるところ功名|聞達《ぶんたつ》よりも、むしろ先づ黄金を得んと欲するの心急なればなり。その境遇や憐れむべし。その志操や卑しむべし。しかるに天下一人の、これが頽《くづれ》を挽回するの策を講ずるなし、かへつてこの気運を煽動し、人才登用を名として、為に門戸を啓き、名望あるの士を迎へて啗《くら》はしむるに黄金をもつてし、籠絡して自家の藩籬に入れ、もつて使嗾に供せんと欲す。ああ銅臭、否鉱毒の感染するところ、士の高節清操を糜爛せしむ。あに慨歎に堪ゆべけむや。いはんやその弊害の及ぶところ、ひいて世運の進歩を妨げ、国威の拡張を障《さそ》ふる事、決して浅少にあらざるをや、速やかに眼前に横たはるの蠧賊《とぞく》を除き、士風の萎靡を振ひ、社会の昏夢を警醒せんと欲し、斬奸《ざんかん》の策を決行す。伏して惟《おもんみ》るに先生の盛徳実にこれ国士無双、謙譲もつて人を服し、勤倹もつて衆を率きゆ。加ふるに経世の略、稜々の節、今の時に当つて先生を外にして、はた誰にか竢つあらむ。しかもなほかつその隙を覗ひ、名望高節を傷つけむと試むるものあるにあらずや。
今や国家実に多事、内治に外交に、英雄の大手腕を要するもの、什《じう》佰《ひやく》にして足らず。しかも出処進退その機宜一髪を誤らば、かの薄志弱行の徒と、その軌を一にし、その笑ひを後世に貽《のこ》さんのみ。あに寸行隻言も、慎重厳戒せざるべけんや。すべからく持長守久の策を運《めぐら》し、力《つと》めて、人心を収攬せよ。人心の帰する所、天命の向ふ所には、大機自から投ずべし。その大機に会し、大経綸を行ひ、大抱負を伸べて、根本的革進を企図するも、未だ遅しとなさざるにあらずや。黄口の児|敢《あへ》て吻喙《ふんたく》を容《い》るるの要なきを知る、知つてなほかつこれをいふ、これ深く天下の為に竢つところあればなり。
顧《おも》ふに生や師恩に私淑し、負ふところのものはなはだ多し。しかるに軽挙暴動、妄《みだ》りに薫陶の深きに負《そ》むく。その罪実に軽しとせず。しかれども生がこの過激蛮野の行為を辞せず、一身の汚名を堵《と》して、微衷を吐露し、あへて一言
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