者を出さうといふつもりではない。いはば緩急の用に応ずる、壮士を準備しておくといふも、一ツの目的なんだから、君間には撃剣でもやつてみたまへ。それぢやあまるでいつも君が痛罵しとつた、尸位素餐《しいそさん》の官吏も同じ事ぢやないか』
とこれは重きを、未来の警部にでも置けるらし。皮肉家の一人さし出て。
『君等は大村の人物を、誤解しとるから、そんな失敬な事をいふんだ。大村の厳父は政論壇上に立ちながら、ことさらに国事犯閥を避けて、平民的常事犯をもて問はるるの所為を選んだ人傑ではないか。してみると今この令息が、先生の下風に立つて、功名の前途を取るを屑《いさぎよ》しとせず。三百代言的弁当料を得るの方針を取るも、乃父に譲らぬ人傑じやないか』
と、どつと笑ふもこの日頃。為也の別て、一郎が気骨を愛し、古参を超えて任用の、一ツは秘蔵の愛嬢が、教科書の復読をさへに、これに托したるを妬めば、得意につけ、失意につけ、さても至るところ冷笑の多き世や。
その九
従前の一郎ならば、かかる事にも眼に角立てべきなれど、今は為也が無言の徳に化せられ、鋒芒を収めたる一郎。よし笑はば笑へ罵れば罵れよ。我には我のせむやうありと。なほも孜々《しし》机にのみ倚りかかる。不性を咎むる奥様のなく、三も大勢の書生様の噂、一々身に引受けむ暇のなければ、幸いに女性の崇りはなけれど。今年十五の御愛嬢、母御におくれたまひしが、もの読む事を好みたまひて。一郎が不骨なるその代わり、他の書生輩の如く騒々しからず。丁寧綿密にその質問に、応じくるるが嬉しさに、大村大村と慕ひたまふ。これのみいつも婦人を、敵に取りし一郎の、上もなき有難迷惑ながら。その無邪気にて清楚なる姿容、凜たる気性の寒梅一枝、霜を凌げる趣ある。いづれはこれも師の俤と。なれてはさして迷惑ならず。せめてはこれを報恩の、一端にもと志す、殊勝なる心掛。さすがに性の順に復《かへ》りて、真面目の見へ初めしに、そのお覚はいよいよめでたく。国事の私事に忙しき御身も、今宵は珍らしく来客の絶えたればと、特に一郎を呼び入れたまふ。先生とは始めての対座、理想の慈父とは仰ぎながら、さてさし向ひては語らひし事のなき。身はさながらに恋人の、前に出たる処女の如く。他人にならば張肱の、拳の置き場はいづくぞと。やつとの事で膝の脇、かくし処を求めしが、精いつぱいの動作なりし。
先生は例の、淡泊なる調子にて。
『どうだ。なかなかよく勉強してゐるやうだね。つい始終|忙《せわ》しいもんだから、聞きもしないが、御親父は御壮健かね』
人も人、言も言。一郎は覚えず熱涙一滴。
『はい達者で居るやうでござります』
『さうか、それは結構だ。選挙の際には、随分卑劣の手段が行はれるからね』
先生は何をか、憶ひ出て感慨一番したまひし後。
『それで何か、君は何をやるつもりなんだ』
『はい、いろいろな妄想も起こつて参りますが、ともかく父を引受けねばならぬ身躰でござりますから。第一着に弁護士で地歩を固め、その以上の事は、後に決定致したい考へです』
『なるほどそれも宜しい。空論空産では仕方がないからね。しかし君の志望は、別にあるといふ事は知つとるから。順序を追つて、充分に遣るが宜しい。出来るだけの保護は必ず与へるから』
対話はこれに過ぎざりしも、言々急所を刺したればか。一郎はこの一二言に、百万の味方を得たるよりも心強く。さてこそ我を知る人は、この先生の外にはあらじ。我はこの知遇に対しても、将来必ず為すところあらざるべからずと、深くも心に刻み込みぬ。
その十
それよりいくばくの月と日は、一郎が境遇にも変化を与へず。心裡も平和に過ぎ去りしに。俄然政海の、光景は一変して、頼みきつたる民党の、かれもこれも猟官沙汰。前車の覆轍、後車なる、開明党の殷鑑とはならで、因果はめぐる小車を、我も己れもと轢らせつ。人の失意を我が得意、出世の門に急ぐなる、その失躰は前車といづれ。誰も鴉の雌雄は知らねど、鷺を鴉と争はれぬ、暗き心根世に知れて、絶えぬ噂はこれ一ツ。駿馬の骨のそれならぬ、国士の果てはさても重宝。死しても皮を留むなる、獣の皮は幾十倍、高値《たか》く売れても、人といふ、その価の下がるが気の毒と。世間の評判朝夕に、一郎が耳にも伝はれど。ともすれば熱血迸らむとする政談に耳傾くるは、今の青年時代にあらじ。父が出獄もほど近きにと。わざと冷淡を装ひて、素知らぬ顔の一郎が、聞き捨てならぬ一報の、またもや耳辺に轟き来ぬ。そは一郎が唯一無二の師と頼みて、その高節を仰ぎ、その徳量を慕ふなる国野為也の。近日挙げられて某省の次官となるべく、またこれを承諾せしといふ一報なり。
さあれ風声鶴涙に驚きて、先生の清操を疑ふは、知遇に負《そむ》くの罪大なりと。わざわざ小田が耳語を一笑に付し去りし一郎も。さすがに全くは忘
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